TAP the ROOTS

「ヘルター・スケルター」に取り憑いたチャールズ・マンソンの妄想

2017.11.23

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ヘルター・スケルター
汗だくの夏


 1971年。ドン・マクリーンは「アメリカン・パイ」の中でそう歌っている。汗だくの夏と彼が歌ったのは、1969年の夏。ヘルター・スケルターとは、チャールズ・マンソンがおこしたカルト教団のことである。
 1969年8月9日、映画監督ロマン・ポランスキーの妻で、当時妊娠8か月だった女優のシャロン・テートなど5人が惨殺された。この殺人を指示したのが、チャールズ・マンソンだった。
 ロスの豪邸で開かれていたパーティーには当初、スティーブ・マックイーンやブルース・リーなども招待されていたが、参加しなかったことで運よく、惨劇を免れている。
 事件は当初、急進的黒人政治組織、ブラックパンサーの仕業ではないかという疑いが持ち上がった。だが、調査の結果、それは、ブラックパンサーの仕業と見せかけ、白人と黒人の対立を煽ろうと考えたチャールズ・マンソンらの犯行であることが判明した。
 カリフォルニアの砂漠で共同生活を送っていたチャールズ・マンソンと彼の信者のファミリーは、白人と黒人の間で戦争が起こる、という予言とともに暮らしていた。そしてマンソンは、この戦争のことを<ヘルター・スケルター>と呼んでいたのである。

「ヘルター・スケルター」
 それは、ビートルズが1968年に発表した通称ホワイト・アルバムと呼ばれる2枚組作品に収録されている楽曲である。チャールズ・マンソンは、この曲こそ、彼らのために書かれた曲だと妄想したのである。
 カルト教団を率いたチャールズ・マンソンには、もうひとつの顔があった。ミュージシャンとしての顔である。
 彼はいくつも楽曲を作っていたし、ビーチボーイズのデニス・ウィルソンらとの交遊もあった。そして、ミュージシャンとしての夢を持っていたそのことが、上記の惨劇を引き起こしたという見方がある。
 事件が起きた家は、少し前、ポランスキー夫妻が借りたものだった。だが、その前の住人は、テリー・メルチャーだったからである。マンソンは、そこにテリー・メルチャーが住んでいると思っていた可能性があるのだ。
 ドリス・デイの息子、テリー・メルチャーは、シンガーとしては成功しなかったが、プロデューサーとして西海岸の音楽を支えていた。チャールズ・マンソンは彼を通して、ミュージシャン・デビューを目論んでいた。だが、その夢は叶うことがなかった。
 チャールズ・マンソンはその恨みから、メルチャーの家に集まった人間に銃を向けさせた可能性が高いのである。

 1969年。
 何かが終わり、次の何かが始まった年。
 1968年に発表された曲だが、ビートルズの「ヘルター・スケルター」はその後の、ハードロック、ヘヴィメタルの時代の幕開けになったと言われている。
 ピート・タウンゼントがザ・フーの「アイ・キャン・シー・フォー・マイルズ」について、これまでで一番騒々しい、ダーティーな曲だとインタビューで発言したことにポール・マッカートニーが触発されて書かれたという「ヘルター・スケルター」は、螺旋構造の滑り台を滑っては、また上に戻り、滑っては戻り、というスピード感をそのままサウンドにしたような曲であり、チャールズ・マンソンとは何の関係もなかった。
 だが、不幸なことに、そのタイトル名は、カルトの代名詞となってしまったのである。

 そして2017年11月19日。
 チャールズ・マンソンは83年の人生に幕を閉じた。



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