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中島みゆき「時代」①~初めて会った日にノートにメモした言葉「もう一人の私」

2016.11.18

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中島みゆきが「時代」を歌って世界歌謡祭のグランプリを獲得したのは、1975年11月16日夜のことだった。
そのニュースは翌17日の月曜日、ミュージック・ラボの社長でもあった岡野弁から直に聞いた記憶がある。

筆者はその時、ミュージック・ラボに入社して2年目の社員だった。
営業部で主に広告をとってくる仕事をしながら、会社に対して歌謡曲ではなくフォークとロックに特化した新しいチャートと記事のページを作るように提案し、編集部が反対するなかで岡野に認められて、毎週4~6ページの『NOW! FOLK&ROCK』を企画編集していた。

ぼくが急いで中島みゆきの取材をするように言われたのは、そうした社内事情によるものだった。
手元にある週刊ミュージック・ラボの1975年11月24日号には、世界歌謡祭の模様を伝える見開きの記事が掲載されている。

岡野はそこで「グランプリの中島みゆきが際立ったコンテストであった。詞も曲も、この年齢らしい素直さがあったし、声も技術も安定し、魅力的であった。将来が約束された才能である」と絶賛していた。

〈参照コラム〉中島みゆきの「時代」が第6回「世界歌謡祭」で堂々のグランプリに輝いた日

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ぼくが担当する『NOW! FOLK&ROCK』でも「特別インタビュー 中島みゆき」が載った。

週刊ミュージック・ラボは毎週土曜日に印刷所から到着し、その日のうちに全国に郵便で発送して月曜日にはほぼ日本全国に届けられるシステムだ。
発行日の11月24日から逆算すると刷り上がりが22日、したがって最終原稿を入稿したのはその3~4日前だったことになる。
ということはインタビューが行われたのは、グランプリを獲得した日から中1日おいた18日、もしくは19日のことだろう。

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中島みゆきは札幌の大学を卒業後、父が営む実家の医院を手伝いながら音楽活動をしていた。
ヤマハのコンテストで認められて9月25日、キャニオン・レコードのアードヴァークから、シングル盤「アザミ嬢のララバイ」でデビューした。

そのジャケット裏面には、アンケート形式でプロフィールが記載されていた。

Q:本名
A:中島美雪

Q:出身地
A:札幌

Q:楽器
A:ギター、ピアノ

Q:レパートリー
A:オリジナル130曲

Q:好きなタレント
A:ジョーン・バエズ、PPM、メラニー

Q:「ララバイ」について一言
A:去年の1月頃作曲、不安な状態から逃げたい気持ちで作る

Q:「アザミ」について一言
A:一見針に包まれて強そうであるが、実際は菜の花や桔梗よりももっと弱い花ではないか。


「アザミ嬢のララバイ」が発売された時、プロモーションらしいことはほとんど何も行われなかった。芸能界やショービジネス界にはなるべく関わりを持ちたくないという、彼女の意志がそこから感じられた。
世界歌謡祭の記者会見でも、「北海道に住み、ふつうの生活をしたい」と感想をのべていた。

筆者は「アザミ嬢のララバイ」が好きだったのと、昭和27年の早生まれで年齢も学年も同じだったので親近感を持った。”好きなタレント”という質問の返答に、ジョーン・バエズとPPMに続いてメラニーとあったことにも好感をいだいた。

取材は港区の飯倉にあった洒落たカフェで行われた。
晩秋の午後に中島みゆきと会ったときのことはよく覚えている。

シンガー・ソングライターという表現者の道を選んではいても、芸能界的な活動は拒否していたことから、生真面目な感じの人だろうと想像していた。

上に揚げた写真は当日の彼女だが、黒のタートルネックのセーターでほとんどノーメイクだった。そして思っていたとおりに、23歳でも少女のような面影があり、清楚で真面目な人という第一印象だった。

お互いにまだこの世界に足を踏み入れたばかりで、ぎこちない自己紹介があってからインタビューが始まった。
最初は型どおりに、終わったばかりの世界歌謡祭について訊ねたが、自分のことではないように思っていたと語ったのは意外だった。

今でもスタッフの一人みたいな気持ちで、ひとごとのような気がします。


ポプコンでグランプリを獲得したときから世界歌謡祭の本番が終わるまで、毎日のように歌の出だしを失ったり、詞を間違えたりする夢を見たという。
ゆっくり考えてから口数少なく語られる言葉のいくつかをノートに書き留めながら、ソングライターとしては何曲の持ち歌があるかと尋ねた。

少し間があってから、「130曲」という答えが返ってきた。
そのときの自信のある表情が、とても凛々しいものに感じられた。

その後の沈黙の中で、筆者は予定していた生い立ちや、音楽との出会いといった質問をやめることにした。

そして「アザミ嬢のララバイ」のような私小説的な歌が生まれてくることは理解できたのだが、「時代」のようなスケール感を持つ普遍的なメッセージの大作が、どうして同じ歳の彼女から生まれてきたのか、そこがよくわからないと正直に感じていた疑問を口にした。

彼女は慎重にことばを選びながら、訥々といった感じでソング・ライティングの方法を話し出した。

現実に生きている私と、もう一人の私が、隣なり、後なりにいるんです。
そのもう一人の私から送ってくる、何かを私は待っているんです。


「もう一人の私」から送られた何かを待っていて、歌ができてくるというのである。
幼稚園の頃から自分の歌を歌っていたらしいと、当時を知る人から教えられたこともあったそうだ。

変わってないのかなあ。
ずっと前から、歌は一部分だったような気がします。


きちんと理解できたわけではないが、十分に納得がいく言葉だった。
「当時を知る人」とは誰だったのか、「お父さん?お母さん?」と言いかけたがやめた。

ほんとうに聞きたかった核心を話してもらえたと思ったので、彼女の言葉をメモしていたノートに「もう一人の自分」と書いて、取材を切り上げることにした。

まだ30分も経っていなかったが、それ以上の話をする余裕も経験もなかった。
それから覚束ない手つきで一眼レフカメラを取り出し、カフェの入口の脇に経ってもらって、バストショットを数枚だけ撮影して帰社した。

すぐに原稿を書いてレイアウトにまわさないと、締切に間に合わないぎりぎりの進行だった。
「特別インタビュー」といいながら2分の1ページに満たない扱いになったのは、取材が突然の話で、他の記事を取りやめて無理に作ったスペースだったからだ。

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ほとんど練られていない拙い文章は、こんな言葉で締めくくられていた。

世界歌謡祭のグランプリ受賞の栄光を手にしても、自分自身のために歌っていく姿勢は、一生変わることはあるまい。
その一貫した歩みの中で、おそらく日本の音楽界に確かな足跡をしるしていくのであろう。


41年後に読み返してみると、若造が偉そうに書いているところに気恥ずかしさを覚えるが、少なくとも大筋では間違っていなかったことに安堵した。
しかしこの時のインタビューの背景で、中島みゆきに何が起こっていたのか、当時はまったく知る由もなかった。

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