1974年の春に札幌藤女子大を卒業した中島みゆきは、帯広の実家に帰って父と母が営んでいた中島産婦人科医院を手伝うようになった。
そして1年後、第9回ヤマハポピュラーソングコンテストに「傷ついた翼」という曲で入賞し、そこから本格的な音楽活動に入ると、9月25日には「アザミ嬢のララバイ」でレコード・デビューした。
だがその直前に父が倒れた。
産婦人科の開業医だった中島みゆきの父は1975年9月16日、51歳という働き盛りに脳溢血で意識を失い、病院に運ばれたものの昏睡状態となった。
担当した医師は心配している家族に、「もう一晩待て」「もう一晩待て」としか言ってくれなかったという。
そして意識が戻らないまま、病院で年を越すことになる。
中島みゆきは父親が昏睡状態にある中で、10月に開かれたヤマハ音楽振興会主催『第10回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会』に出場し、「時代」を歌ってグランプリに選ばれた。
さらに『第6回世界歌謡祭』という大きな舞台でも、堂々のパフォーマンスで「時代」はグランプリに輝いたのである。
そうした快挙を成し遂げることができたのは、父への思いが込められた楽曲そのものに、ほんとうの「音楽の力」があったからではないか。
さらには歌手としての「もう一人の自分」にも、父の魂が乗り移っていたのかもしれない。
だからやさしい言葉であっても、伝わってくる思いは深く、聴くものに力を与えてくれるのだろう。
1976年1月、意識が戻らないまま父は息を引き取った。
中島みゆきは後にインタビューで、「その時家には10万円もなかったのよ」と語っていた。
『世界歌謡祭』のグランプリで渡された賞金の5,000ドルは葬儀代にあてられたという。
シングル盤の「時代」はこのとき、2枚目のシングルとしてリリースされた。
「時代」はその後も中島みゆきの手で、新たな別ヴァージョンが作られてアルバムやシングルに収録された。
こうして楽曲は誕生した時のままでも、歌としては時代とともに成長していった。
やがて多くの歌手にもカヴァーされて、今では日本のスタンダード・ソングになっている。
ところで世界歌謡祭の後に行われたインタビューで、25歳の筆者は「時代」のようなスケール感を持つ普遍的なメッセージ・ソングが、「どうしてぼくと同じ年のあなたから生まれてきたのかがよくわからない‥」と、正直に尋ねたことがあった。
すると彼女は慎重にことばを選びながら、訥々といった感じでソング・ライティングの方法を話してくれた。
「現実に生きている私と、もう一人の私が、隣なり、後なりにいるんです。
そのもう一人の私から送ってくる、何かを私は待っているんです」
<参照コラム 中島みゆき「時代」①~初めて会った日にノートにメモした言葉「もう一人の私」>
「時代」で世界歌謡祭のグランプリを獲得した日から36年の歳月を経た2011年11月16日、中島みゆきは38枚目のオリジナル・アルバム『荒野より』を発表した。
筆者にはその1曲目に収められた歌が、かつてソング・ライティングについて語った言葉、「もう一人の私」から36年後に届いたメッセージ・ソングに聴こえた。
走っている僕は「もう一人の私」であり、そして子を持つ父親であり、亡くなった父とも重なっている。
「もう一人の私」から送られてくる何か、それが父の言葉となって聴こえてくる。
「荒野より」の公式動画には、父親を失った子どもと、かつての家族の姿が描かれていた。