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ポップスの傑作だとささやかれた六文銭の「夏・二人で」を、20年後にカヴァーした吉田拓郎

2018.08.31

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1972年に発表された六文銭のファースト・アルバム『キングサーモンのいる島』は、小室等が率いる「六文銭」の唯一で最後のスタジオ録音盤だ。
前評判の割にはそれほど売れたレコードにはならなかったが、ポップスの傑作だとささやかれた楽曲が入っていた。

「夏・二人で」 作詞・作曲 及川恒平

暑い夏の盛り場を ボクタチ うきうき歩いた
ヒカリの瞬間を摺り抜けては どうしても真直ぐに歩けない
賑やかに 賑やかに 出来るだけ賑やかに
「長いドレスが欲しいなぁ あの飾りの窓の・・・」
ポツンとひと言 心の中に
夢の径をたどって そっと収まる
いつかの夏に そんな言葉


この曲をデュエットしていたのは作詞作曲した及川恒平と、紅一点のヴォーカルだった四角佳子である。

及川はその頃に最も影響を受けていたジョニ・ミッチェルからギターの弾き方を学んでいて、彼女のレコードを聴いてなんとか自分なりに、スリーフィンガーピッキング奏法がマスターできた記念に「夏・二人で」を作ったという。
そのせいもあってか明るい和音の響きに呼応して、「うきうき」した弾む気持ちが、歌と音楽の全体を支えている。

伸びやかで清涼感がある四角のヴォーカルは、控えめだが明るさを感じさせるもので、二人のデュエットは絶妙のバランスだった。
四角はこの楽曲だけでなく、アルバム全体にも華やかさを加えて、女性としての確かな存在感を放っていた。



小室等が中心となって結成された音楽ユニットの六文銭は、1968年に結成されたが当初から流動的で、メンバー・チェンジを繰り返してきた。

ヤマハが主催する「第3回合歓ポピュラーフェスティバル’71」に応募した作品、「出発(たびだち)の歌」(作詞・及川恒平、作曲・小室等、歌・上條恒彦)がグランプリに輝いたのは1971年の夏のことだ。
「出発の歌」は11月に開催された「第2回世界歌謡祭」でもグランプリを受賞し、急きょ発売になったレコードも大ヒットを記録した。

そうした勢いがあった時期に、満を持してレコーディングされた『キングサーモンのいる島』は、新しく誕生したベルウッド・レコードの第一弾として1972年4月25日に発売された。




ところが六文銭はアルバム発売と同時に、すでにグループの解散を決めていたという。
ベルウッド・レコードを創設したプロデューサーの三浦光紀が、唐突に見えた解散についてこのような見解を述べていた。

「結局ね、『出発の歌』が売れて、も~のすごい忙しくなっちゃって。でも基本的に小室さんたちは、あまりテレビとか出たがらないんですよ。コマーシャリズムっていうか、ああいうのが嫌だとか言われちゃって」
「売れてなかったら、そのあともいっしょにやってたと思う。なんか当時はそういな空気があったんですね。だって(吉田)拓郎さんが、石投げられたり、『帰れ』とかやられてたんだから」


六文銭は1972年6月23日、目黒・杉野講堂でのライブをもって解散を表明した。
しかしその後もファンの要望に応える形で、新宿厚生年金会館大ホールで7月7日と8日の二日間、お別れの無料コンサートを開いている。
このコンサートはライブ盤のレコーディングを前提としたもので、それまでの歩みをたどるレパートリーが演奏された。

それらの楽曲を中心にして、スタジオでの演奏も加えた、2枚組のアルバムが集大成となる『六文銭メモリアル』だった。




六文銭の解散から1年後の6月26日、元のメンバーだった四角佳子が長野県軽井沢で結婚式を挙げた。
相手は吉田拓郎、二人のことを歌ったと思しき「結婚しようよ」が、巷で大ヒット中だった。

四角は六文銭に入る約半年ほど前まで、大阪に本拠を置いていた西野バレエ団に所属するタレントであった。
金井克子、原田糸子、由美かおる、奈美悦子、江美早苗につづく、西野バレエ団としては6人目のタレントとして、志麻ゆきの芸名でデビューしていた。
     
本来ならば歌って踊れるスターとして将来を嘱望されていた四角が、フォークグループの六文銭に入ったのは、山本コウタローの著書「誰も知らなかった拓郎」(八曜社)によれば、以下のような事情だったという。

10時が門限という寮に入れられ、頭からおさえつけられているかのような西野バレー団での生活は、多感な行動派の娘にはとても我慢のならないものであった。そう、お佳もまた拓郎がそうであったように、反逆児だったのである。やがてお佳はプロダクション側のスタッフとことごとくぶつかり喧嘩するようになると、自分には芸能界の水がまったく肌に合わないんだということに気づく。そう知るともう芸能界に何の未練もなかった。お佳はタレント生活からさっさと足を洗い、大阪の実家に帰っていった。


そんなときに四角の歌の作曲者だった小室等から、六文銭に入らないかと電話で誘われた。

「その時はそれは嬉しかったわよ。家にいてももうすっかり煮詰まっていたし、小室さんは好きだったし。すぐやってみようという気になったなあ~」


小室を信頼していた四角は、渡りに船とばかり復帰を快諾し、小室が両親を説得して了解を得たうえで再び上京した。
こうして六文銭に加入したことによって、初仕事の現場で吉田拓郎と出会うことになるのだ。

二人が知り合ったのは1971年5月30日、愛知県の岡崎市で行なわれた吉田拓郎と六文銭のジョイントコンサートだった。
それから約一年の交際を経て、二人は軽井沢のの「聖パウロ教会」での結婚式に至ったのである。

吉田拓郎が当時から「夏・二人で」を気に入っていることは、自分のラジオ番組でもしばしば流していたのでよく知られていた。

ところが出会いからわずか3年で、二人は離婚する道を選ばねばならなかった。

そこからさらに10年数年が過ぎた1992年、シングル「吉田町の唄」とのカップリングとして、吉田拓郎が「夏・二人で」をカヴァーした。
そのときは熱心なファンも突然のことで驚いたらしいが、オリジナルのアレンジや解釈とは異なる渋みがあり、大人の味わいがするヴァージョンに仕上っていた。

暑い夏の真夜中に ボクタチとつぜん気が付く
ダルイ体をタタミの上に 危なっかしく投げ出したそのあとで
ひっそりと ひっそりと 出来るだけ ひっそりと
「グリーンサラダが食べたいな 綺麗なレストランで・・・」
ポツンとひと言 寝言みたいに
夢の径をたどって 消えてしまう
いつかの夏に そんな言葉





<参考文献>三浦光紀氏の発言は、奥 和宏 著「ベルウッドの軌跡」(インプレスR&D )からの引用です。
また『誰も知らなかった吉田拓郎』(八曜社)からは、山本コータロー氏の文章と四角佳子氏の発言を引用させていただきました。

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