六文銭は1968年に小室等が中心となって結成されたグループで、小劇場演劇から生まれた佳作の「雨が空から降れば」、ポップスの傑作とささやかれた「夏・二人で」、1971年の「第2回世界歌謡祭」のグランプリ受賞曲でゲスト・ヴォーカルの上條恒彦が歌った「出発(たびだち)の歌」などが代表作である。
もともと結成から解散までの間にメンバーが何度も入れ替わったこともあって、バンドというよりはユニットという言葉が似合うグループだった。
しかし小室等とともにグループの中心だったシンガー・ソングライターの及川恒平、ヴォーカルの四角佳子による3人で、「まるで六文銭のように」として2000年に活動を再開したのがきっかけとなり、こむろゆいが2009年に加わったことで「六文銭’09」にグループ名を改めた。
そして結成から50周年を迎えた今年は新しいアルバム『自由』を11月7日に発表したが、それに合わせてグループ名をオリジナルの「六文銭」に戻したのだという。
9年ぶりとなるオリジナル・アルバム『自由』の内容については、“六文銭”流の切り口によるプロテストソング集だと、小室等が単刀直入に語っている。
それをストレートに伝える1曲が、戦後すぐの時期に南方から命からがら復員した詩人の黒田三郎が発表した詩に、新たに小室等が曲を付けた「道」だろう。
戦い敗れた故国に帰り すべてのものの失われたなかに
いたずらに昔ながらに残っている道に立ち 今さら僕は思う
右に行くのも左に行くのも僕の自由である
(黒田三郎詩集「時代の囚人」より)
それにしても今度のアルバム全体を貫く空気感の爽やかさ、そして歌声の美しさには目をみはらされた。
解散から46年もの時をくぐりぬけるなかで、新たな出発を果たした4人が集まることの相乗効果なのだろうか。
どの曲も伸び伸びとしていて、そこから音楽の自由が伝わってくる。
またユーモアのセンスに満ちた歌が多く、今の4人でしか表現できない歌を、心ゆくまで楽しめるアルバムになっている。
セールスが好調なところにも、そのあたりが反映されているのだろう。
【11/13付 週間日本のロックチャート】
— ディスクユニオン インディーズ (@diskunion_indie) 2018年11月16日
1.宇多田ヒカル
2.スキマスイッチ
3.ザ・コレクターズ
4.宮内國郎
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アルバムの中でもとりわけ、今のメンバー4人にしか歌えない曲が、21世紀の日本語の歌としても新境地に到達している「てんでばらばら~山羊汁の未練~」である。
この詩を提供した詩人の佐々木幹郎がライナーノーツに、痛く感銘を受けたという文章を寄稿していた。
「てんでばらばら」の場合は、事前に小室等に「山羊汁の未来」の詩を渡していた。この詩に作曲は無理でしょう、などと言って、もっと作曲しやすい詩とともに渡したのだった。しばらくして、「山羊汁の未錬」を作曲することにした。面白い方法を考えついた、という電話があった。だから、興味津々に待ち受けていたのである。
そして、わが書斎のスピーカを通してCDを聴くことになったのだった。
聴き終わった瞬間、うかつにもわたしは泣いてしまった。そんなことは、これまで一度もなかった。50人ほどの観客がいる前である。わたしのなかで、何が起こったのか。
「てんでばらばら~山羊汁の未練~」は1980年に韓国で起こった「光州事件」で、民主化をもとめる者たちが権力に立ち向かった、歴史的な民衆蜂起をテーマにしている。
当時の軍事政権に反対した市民たちに呼応して佐々木が書いた詩であり、その中に出てくる「キムさん」とは、大阪に住む在日一世の金時鐘氏のことだ。
佐々木が「キムさん」に連れられて、大阪市生野区の猪飼野地区にあった山羊汁家に行ったときの体験と、テレビで流れた光州事件の映像が交叉して歌われている。
山羊汁は朝鮮伝統の民間料理で、何日も煮込んだ山羊の肋骨と肉はおそろしく柔らかくおいしい。日本人はこんなうまいもの知らないだろう、とからかわれながら、山羊汁をいただいたのである。
歌の冒頭、ギターが刻む激しくリズミックな音と、「てんでばらばら」の合唱で、いきなり、当時の猪飼野地区の人々が、サンダル作りのために動かす、電動ミシンのリズムが蘇った。
それからこむろゆいの乾いた声で「電動ミシンのうなり声が響く/路地の乾いた呪文よ」と朗読があり、ところどころにミシンのうなりのリズムに似た、詩句のリフレインがはさまり、「いっそ裸足で歩いて/頭に長靴でもかぶせたらどうだ」と語る及川恒平の声。あえてうまく朗読しないで、トツトツとした語りとなってきたあたりで、わたしは嗚咽に似た感情に誘われだしたのである。
ここで美しい声でうたわれ、雄弁になられたら、私は一挙に身を引いただろう。自信なさそうな声だからこそ、この詩句は生きるのだ。いや、イメージが鮮明になり、立体的になる。
「音もなく」のリフレインあたりから、わたしの30代の青春期最後の悩みが急激に目の前に迫ってきた。四角佳子の「追いつけるかな」の声。そして最後の詩句の、「けんめいになる」を小室等が「けんめいに」と「なる」の間に、一息を置いたとき、とどめを刺された。
小さな生活と小さな愛。人は「てんでばらばら」にそれを守ろうとし、それを抑圧するものには抵抗して、生きる。
それを歌として共有することによって、誰もが決して一人ぼっちではないと確かめられるのが、静かなるプロテストソングなのだろう。