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「ラヴ・ミー・テンダー」の原曲「オーラ・リー」を歌ってスターの道が開けた女優フランシスを待っていた悲劇

2018.06.29

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1936年に公開されたアメリカ映画『大自然の凱歌』のなかで、ヒロイン役のフランシス・ファーマーが歌った「オーラ・リー」は、後にエルヴィス・プレスリーによってカヴァーされて「ラヴ・ミー・テンダー」となり、世界中で知られる名曲になった。

この映画の監督はハリウッドの巨匠として有名なハワード・ホークスだったが、プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンと対立したことから、撮影途中で降板させられたために、ウィリアム・ワイラーが引き継いで完成させた。

ハワード・ホークスはフランシスについて、「私がかつて仕事をした中では、絶対にフランシス・ファーマーがベストの女優だ」と述べている。

映画の前半部で酒場女を演じるにフランシスに対して、ホークスは街娼が立っているハリウッドの街角に連れていって夜ごと路上に立たせて訓練した。
上品で清楚な美貌の彼女が男たちから娼婦とみなされて、声をかけられるようになるまで撮影は始めなかったとといわれる。

それから21年後に「ラヴ・ミー・テンダー」となった原曲の「オーラ・リー」を歌う酒場の女は、演技も歌もしっかり板についていてとても好評だった。
酒場の女とその娘を一人二役で演じたフランシスはこの映画のヒットで、「グレタ・ガルボの再来」と賞賛されたのだから、ハリウッドを代表する人気スターになる道が開けたといえる。

ところがフランシスはスターではなく、演技派の女優を目ざしていたのである。
だから映画会社の言いなりにはならず、常に自分の意志を主張したことによって信じられないような悲劇に巻き込まれることになるのだ。


1913年にワシントン州シアトルに生れたフランシスが、ニーチェに啓発されて書いたエッセイ「神は死んだ 」によって雑誌のコンテストで表彰されたのは16歳の時だった。
母親の希望もあって名門ワシントン大学へ進学して演劇を専攻、在学中に左翼系新聞社のコンテストで優勝した懸賞金でモスクワへ旅行している。
  
パラマウント社と7年の契約を交わしたのは1935年のことだが、これは女優になりたかった母親の夢を背負わされてのことだった。
彼女は母親に説得されて、ジャーナリズムへ進む道をあきらめて女優になったのだ。

そして才色兼備の美女として将来を嘱望されてハリウッド入りし、最初から主演として迎えられるという好待遇の中で、3作目にして『大自然の凱歌』に抜擢されて周囲の期待に答えてみせた。
順風満帆そのもののスタートを切ったのである。

しかし演技力よりも容姿を重視したスター・システムのもとで、ハリウッド流の商業映画を作るという特殊な世界に、彼女はどうしてもなじむことが出来なかった。

芸能欄のゴシップ記事に取り上げられるために男性スターとデートすること、マスコミに影響力を持つゴシップ・コラムニストと付き合うこと、パラマウント社のお偉方のご機嫌をとること、どれもが嫌だったのだ。

1937年には華やかな世界から離れてニューヨークのブロードウェイで舞台に立つようになったが、共産主義者の劇作家と不倫関係になったことで、まもなくしてハリウッドに連れ戻された。

彼女がいつも求められていたのは、会社の方針に対して従順でいることだった。
だがその後もパラマウントから与えられる無知な女性の役を嫌って反抗し、そのたびに問題を起こして次第に立場が危うくなっていく。
やがてゴシップ・コラムニストによって学生時代の経歴などから、高学歴で鼻持ちならない共産主義かぶれの無神論者というレッテルを貼られた。

ハリウッドを動かしている組織や権力者たちオのルールに従わず、自分らしい生き方を求めるフランシスに対しての風当たりは強く、それについてのストレスからアルコール依存が激しくなった。

有名スターだった彼女は昼は自由に行動ができないので、夜の闇にまぎれてドライブするのが好きだったが、サンタモニカの警察からよく知られるくらい飲酒運転のチケットを大量に切られていたという。

転落が始まったのは1942年で、新作として用意された映画のリハーサルをすっぽかしたことによって、パラマウント社を解雇されたことが発端となった。
その年10月19日、戦時下で灯火管制にあったサンタモニカでヘッドライトを灯けて車を運転していたところを警官に止められ、飲酒運転をとがめる警官に暴行を働いたとして、公務執行妨害で現行犯逮捕された。

500ドルの罰金を科せられて250ドルを払って自由の身になったものの、残額を支払う猶予期間に残額を支払わなかったことで1943年1月に再び逮捕。
公判では裁判官にインク瓶を投げつけたことで、そのまま刑務所に入れられた。

やがて「妄想的精神分裂病」と診断されて精神病院に送られると、古典的な電気ショック療法とインスリンショック療法の治療を受けた。

数ヶ月後の1943年9月、母親の訴えが認められ精神病院から退院したフランシスは、故郷のシアトルに戻って半年ほどは平穏に暮らしていたが、母親に暴行を働くようになって再び精神病院へ入れられた。

父親とネバダ州へ旅行中に逃亡し、カリフォルニア州で浮浪罪によって逮捕されたことで、1945年5月からは再びシアトルの精神病院に収容される。
フランシスはそれからの5年間、看守から性的暴行を加えられるなかでまったく希望の見いだせない、穴の中の生活を強いられたのだった。

1950年代に入って退院した後はテレビドラマに出演したり、テレビ番組のレギュラー司会者を務めたが、もはやかつてのフランシスではなかった。
56歳で食道癌のため亡くなったのは1970年8月1日だった。

それから12年後の1982年、彼女の生涯を描いた映画『女優フランシス』がジェシカ・ラングの主演で制作された。


さらにはボーイ・ジョージ率いるカルチャー・クラブが、1984年にリリースした「THE MEDAL SONG」を発表して人々の関心が向き始める。


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