1964年12月11日、サム・クック(享年33)がこの世を去った。それは誰も予測できない突然の出来事のことだった。
その夜。サムは、ロサンゼルスのハリウッドにある酒場で知り合ったリサ・ボイヤーという女性を、「別の店へ行こう」と誘い出し、そのままイタリア製の高級スポーツカーに乗り込み、サウスセントラル地区にあるモーテルにチェックインした。
酒場ではなく、モーテルに入ったことに驚いた女性は、サムがシャワーを浴びている間に(追いかけられないようにと)彼の服を隠した上で部屋を飛び出した。
シャワーから出たサムは、いなくなった女性を探し始め、全裸にジャケットと靴だけという姿で、モーテルの管理人室へ押しかけた。
この時、サムは泥酔した状態で、管理人の女性に掴みかかって、逃げた女の行方を聞こうとした。
「あの女どこに行った! 隠さずに答えろよ!」
それは、管理人の女性にとって身の危険を感じるほどの激しい剣幕だったという。次の瞬間、女性は護身用に持っていた銃の引き金を引いた。その弾丸は、目の前の半裸の男の胸部を突き抜け、スター歌手サム・クックはその場で死亡した。
その後の裁判では正当防衛と認定され、管理人の女性は無罪となった。サムの死をめぐっては、後に多くの疑問が呈されたが、真相はいまだ謎のままである。
今日は偉大なソウル歌手サム・クックを偲んで、彼の生い立ち、少年時代をご紹介します。
1931年1月22日、サミュエル・クック(本名)は、ミシシッピ州クラークスデイルで生まれた。父親は牧師をしており、地域の人々から尊敬される存在だったという
かつて多くの黒人労働者で賑わっていたその町は、サムが生まれた頃には活気を失いつつあった。サムの記憶の中では、兄がいつも口にしていた言葉が鮮明に残っていた。
「俺たちが住んでいたのは田舎町なんかじゃないぜ!週末になれば町を取り囲む巨大なプランテーションからたくさんの労働者が繁華街を目指してやってくるんだ! 酒場や商店、それに売春宿と教会が同じ通りに並ぶ街、そう! 俺たちは“新世界(ニューワールド)”で育ったんだ!」
黒人人口の多さ、使える金の少なさ、綿農場でのきつい仕事、安酒の呑んで陽気に騒ぐ労働者たち。そんな環境が、“デルタブルース”と呼ばれる音楽を生んだ。
かつてロバート・ジョンソン、チャーリー・パットン、スキップ・ジェイムスといった伝説的なブルースマンたちがその繁華街にやってきて、酒場や街角で演奏していたこともあった。
サムが生まれた年、ブルース・ミュージックは78回転のSPレコードに収められるようになり、“新しい文化”として世の中に浸透しつつあった。
クラークスデイルの町では、社会的・文化的な潮流の中、“悪魔の音楽”と呼ばれたブルースの他に、霊歌(スピリチュアル)も存在していた。
幼いサムにとっても、その霊歌が唄われる協会は特別な場所であり、地域の住民が集う大切なコミュニティーの中心的存在だった。
サムが最初に善悪を学び、音楽を教わったのも教会だったという。サムの兄は当時の弟についてこんなことを語っている。
「あいつは生まれた時から歌っていたんだよ。言葉を覚えると当時にもう歌っていたよ。とにかく歌うことが大好きでね。小さいくせにテナーのいい声をしていたよ」
1939年、第二次世界大戦が始まった頃、クック一家の子供たちは、グループ“ザ・シンギング・チルドレン”を結成した。10代だった姉と兄がリードを取り、弟たちがハーモニーをつけた。
当時8歳だったサムは、幼いながらも美しいテナーでコーラスの要を担っていた。彼らは父親の教会を中心に歌いながら、時にはシカゴなどにも遠征してゴスペルを披露した。当時、彼らが十八番として必ず歌っていたのが霊歌「Swing Low Sweet Chariot」だった。
彼らが育ったクラークスデイルの町には、少年ゴスペルグループがたくさんいた。その中でもクック家の兄弟によるザ・シンギング・チルドレンは、頭ひとつ抜けていた。特にサムの可愛いルックスと歌声に大人たちは、「将来この子は素晴らしい歌手になる!」と、太鼓判を押していた。サムは当時のことを憶えていた。
「うちは貧しかったから、僕たち兄弟が歌うことでちょっとした収入にもなったんだ。父は世渡り上手じゃなかったから、とにかく正直に生きること、悪いことをせず真っ当な道で稼ぐことを教えてくれたんだ」
黒人街で育つ子供達の中には、幼い頃から窃盗などをして小銭を稼ぐ者もいた。しかし、サムは父親も教えを守り、そんな道を走らなかった。
兄弟たちとゴスペルを歌う以外にも、学校帰りに市電の駅の前で、友達のギターに合わせて歌うこともあった。そこで歌うのはゴスペルではなく、当時のポップソングだ。市電を待つ人々は、サムの歌声に足を止めて1セント硬貨、5セント硬貨を投げ入れてくれたという。
「当時一番ウケがよかったのはジーン・オートリーの“South of the Border”だったかな。それにインク・スポッツの“I Don’t Want to Set the World on Fire”なんかも歌っていたよ」
サムの評判と共に、ザ・シンギング・チルドレンは活躍の場を広げていった。学校が夏休みともなると、一家はワシントンやカリフォルニアまで足を伸ばし、父親の牧師としての仕事と共に、様々な教会や宗教イベントで歌を披露した。父親は当時のことをこんな風に語っている。
「何しろ稼いだのなんのって! 教会の面倒をみて、経費を全部払って、それでもお金が残るくらいだった。稼いだお金で車も持てたくらいなんだから。私たちの旅はどんどんよくなっていった。最初は砂利道だったけど、気がつけばアスファルトを走っていたよ。」
思春期に入っていたサムは、父親との旅や歌の仕事を通じて多くのことを学んだ。父がどのように人と出会い、挨拶をするかを注意深く見ていた。父がどんな態度で教会の執事や女性たちと接するかも知った。そして、いかに一つの歌を聴き手に伝えるかを学んだのだ。
そんなある日、クック一家はシカゴの街で、素晴らしいグループのステージを目の当たりにする。サムは、その時のことを鮮明に憶えていた。
「テキサス出身のソウル・スターラーズ! そりゃ凄かった! あのハーモニーには兄弟全員が参ってしまったよ! とにかくそれまで聴いたどんなグループよりも素晴らしかった!」
1922年に、少年ゴスペルグループとしてテキサスの教会で結成されたスターラーズは、カルテットとして初めてプロになったグループの一つだった。この出会いが、サムの歌手としての運命を大きく動かすこととなる。
兄達の兵役の事情などでシンギング・チルドレンが解散し、サムは新しいグループで初めてリードを取るようになり、さらに注目を集める存在となっていた。
そして、19歳のときに憧れのソウル・スターラーズのリードボーカルに抜擢され、その加入を機にプロ歌手として本格的なキャリアをスタートさせることとなる。
「マディ・ウゥーターズが若きブルースマンだった頃、サン・ハウスのもとで学んだように、僕はスターラーズで最上のトレーニングを積んだのさ。その頃の彼らはシカゴを掌中にしていたのみならず、アメリカ全土でも1、2位を争うトップカルテットだったからね」
<引用元・参考文献『Mr.Soul サム・クック』ダニエル・ウルフ(著)石田泰子(翻訳)加藤千明(翻訳)/ブルースインターアクションズ>
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執筆者
【佐々木モトアキ プロフィール】
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【公演スケジュール】
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