1985年の6月、音楽ファンを驚かせる1枚のライヴ・アルバムがリリースされた。33歳の若さで亡くなったサム・クックのライヴ・アルバム、『ハーレム・スクエアー・クラブ 1963』だ。
このライヴが、録音されてからリリースされるまでに20年以上もの月日がかかったのは、レコード会社がこのアルバムはサム・クックのイメージを壊してしまうとして、お蔵入りにしてしまったからだった。
1957年にソウル・シンガーとしてソロ・デビューしてから、サム・クックはその甘い歌声を武器に、黒人だけでなく、白人からも支持されるようになった。
まだ公民権法がなかったこの時代、白人の黒人に対する差別意識は非常に強かったが、それでもなお白人を惹きつけるほどの圧倒的な魅力が、サムの歌にはあった。
大手レコード会社のRCAに移籍してからは、「ワンダフル・ワールド」や「チェイン・ギャング」など、次々とチャートにヒット曲を送り込んでいき、ポップス・シンガーとしての地位を築いていく。
そんな中、サムとRCAはライヴ・アルバムを制作することを決めた。録音場所に選ばれたのはハーレム・スクエア・クラブ。フロリダ州マイアミで、貧しい黒人が多く暮らしている地区にあるクラブだ。
そこはサムのもうひとつの顔、ヒット・シングルでは抑えていた刺激的なソウルを披露するのに打ってつけの場所だった。それまで白人を意識したレコード作りを続けてきたが、このあたりでまた黒人にアピールしておくべきだと判断したのかもしれない。
サム・クックにはソロデビューする前の7年間、ゴスペル・グループで活躍していた時代がある。父親が牧師をしていたサムは、幼い頃からシカゴの教会で歌い、数々のコーラス・グループでリードを務めてきた。
1950年には20年以上の歴史を持つ人気ゴスペル・グループ、ソウル・スターラーズに加入し、若い黒人からアイドル的な人気を獲得していた。
1963年1月12日、ハーレム・スクエアー・クラブはサムをゴスペル時代から応援していた熱心なファンたちで一杯になった。クラブの支配人に紹介されてキング・カーティスのバンドによるホーン・セクションが鳴る中、サム・クックはステージに上がると、早速「調子はどうだい?」と観客に呼びかける。
突然だったせいか観客は上手く反応できない。するとサムは「もう一度聞くよ、調子はどうだい!?」と語気を強めて煽る。今度は客席から盛大な歓声が上がった。その反応に満足したサムは、リズミカルに話しながら1曲目の「フィール・イット」の合図を出す。
サムはいつもよりしゃがれた声でエネルギッシュに歌い、そしてしゃべり続ける。曲と曲の合間でさえ休むことはなく、音楽が途切れずにずっと続いているかのような感覚をもたらす。そして最高にエキサイティングする観客を自在に操り、一体となって強靭なグルーヴを生み出していく。
サム・クックは、これ以上ないほど熱狂的なパフォーマンスを披露した。ところが、RCAはこれはリリースすべきではないとサムに伝えた。あまりにも騒がしく、そして生々しいこの音楽は、これまでサムが築いてきたクリーンなポップ・スターとしてのイメージを壊してしまう、というのがその理由だった。
代わりにニューヨークの高級クラブ、コパカパーナで白人を前にして歌ったライヴ・アルバム『アット・ザ・コパ』が、翌1964年にリリースされた。
そしてその年の終わり、サムは銃で撃たれてこの世を去ってしまう。こうしてハーレム・スクエアで歌うサム・クックは知られることなく、世間では甘い声で歌うポップ・スターとしてのイメージだけが残るのだった。
それだけに、20年以上の月日を経て明らかになったこのライヴ・アルバムは、ファンはもちろん多くの音楽ファンに驚きと衝撃を与えた。そしてサム・クックが再評価されるきっかけにもなるのだった。
こちらのコラムも合わせてどうぞ
サム・クックの素晴らしさを発見した日本のミュージシャンたち
サム・クック〜ゴスペル歌手からポップ歌手へ
●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから