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フレディ・キングを偲んで〜“テキサスの弾丸”と呼ばれたブルースマンの偉大な足跡と功績

2024.12.28

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1976年12月28日、ブルースの“3大キング”の一人フレディ・キング(享年42)が、テキサス州ダラスで出血性潰瘍と心不全のため急逝した。

B.B.キングよりも9歳年下で、アルバート・キングよりも11歳若かったフレディは、250パウンド(110Kg以上)の巨体と、愛機チェリーレッドのギブソンES-345TDから織りなすダイナミックなプレイから、“Texas Cannonball(テキサスの砲弾)”と呼ばれていた。※1970年代に入ってからはギブソンES-355TDSVも愛用していた

エリック・クラプトン、デュアン・オールマン、ジェフ・ベック、スティーヴィー・レイ・ヴォーンなど、多くのギタリストに影響を与えた演奏スタイルの特徴といえば、テキサス掛けと言われた(たすき掛けにしない)ストラップ、金属製のサムピックとフィンガーピックで弦を弾(はじ)く太く歪んだサウンド、そして躍動的なチョーキングだった。

フレディの死後、エリック・クラプトンはこんな言葉で彼の功績を讃えた。

「フレディから教わった一番重要なこと、それは、ギターと弾き手が愛し合って一つになることさ」


1934年9月3日、フレディ・キングはテキサス州のギルマーで生まれた。祖父はネイティヴアメリカンのチョクトー族で、フレディが誕生する前、娘(フレディの母親)にこんな予言を伝えていたという。

「お前が授かる子供は、将来何百万という人々の心をかき乱し、同世代に大きな影響を与えることになるだろう」


6歳からギターに触れ始め、母親とその兄弟(伯父)の教えでカントリーブルースを演奏するようになる。最初はライトニン・ホプキンスやジョン・リー・フッカー、ルイ・ジョーダン、そしてB.B.キングのレコードを繰り返し聴きながら、同じタイミングで弾けるように必死に練習していた。

初めて手にしたギターは、シルバートーン製のアコースティックモデルだった。少しずつ上達していくにつれて、新しいギターを手に入れたくなった。

「自分でギターを購入するために、綿摘みの仕事をしていたよ」


次に自分で稼いだお金で買ったギターは、ロイ・ロジャース製のアコースティックモデルだった。そして10代の頃、一家はシカゴに移住する。1950年代初頭、時代はシカゴブルース全盛期を迎える直前だった。

ブルースの聖地となりつつあったその街で、フレディは多感な時期を過ごすこととなる。未成年だったにも関わらず、夜な夜なシカゴのクラブなどに潜り込むようになる。ある夜、クラブの支配人に見つかり、店からつまみ出されそうになっていたフレディを助けてくれたのが、ハウリン・ウルフだった。

「そいつはウチの奴だ!手をはなしてやりな!」


そんな出会いをきっかけに、フレディは当時シカゴで活躍していたブルースマン達と交流を持つようになる。エディ・テイラー、マディ・ウォーターズ、リトル・ウォルター、ジミー・ロジャース、その面子は錚々たるものだった。

「俺に金属製のフィンガーピックの使い方を教えてくれたのはエディ・テイラーさ!」


昼は製鉄所で働き、夜は酒場やクラブで演奏する生活を続けながらギターの腕を磨いた。1956年、22歳の時に地元のマイナーレーベル(El-Bee)と契約し、「Country Boy」と「That’s Want You Think」の2曲を録音。


その後、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフも契約していた、シカゴブルースを代表するチェスレコードのオーディションを何度か受けるが、当時チェスはフレディの才能を認めなかった。

「B.B.キングの二番煎じのようだから、という理由で落とされたんだ」


しかし、その挫折は独自のスタイルへと導く大きな転機となった。1959年、ピアニストのソニー・トンプソンとの出会いが、運命を大きく変えることとなるのだ。

当時、ソニー・トンプソンが所属していたキングレコード傘下のフェデラルレコーズとの契約するチャンスを掴み、翌1960年に「Hide Away」をR&Bチャート5位、ポップスチャート29位に叩き込み、一気にその才能を開花させていく。

当時、特にイギリスのブルース・ギタリスト達は、フレディのプレイに熱狂したという。ジョン・メイオールは「Have You Ever Loved A Woman」を気に入り、こんな言葉で評したという。

「その腕前は凄まじかったぜ!フレディは聴衆の気持ちにストレートに働きかける速弾きの定番フレーズを持っていた名手だね! 」



1960年代後半までに、ジョン・メイオールやエリック・クラプトンによって神格化され、フレディはブルースマンとしての確固たるステータスを獲得した。

1968年にはアトランティックレコード傘下のコティリオンと契約し、キング・カーティスのプロデュースで『Freddie King Is a Blues Master』(1969年)、『My Feeling for the Blues』(1970年)という2枚のアルバムを発表。

1970年にはレオン・ラッセルのシェルターレコードと契約し、『Getting Ready』(1971年)、『Texas Cannonball』(1972年)、『Woman Across The River』(1973年)という3枚のアルバムを発表。この時代には、ジェフ・ベック・グループによるカバーでも知られる「Going Down」が生まれている。

1974年にはRSOと契約し、『Burglar』(1974年)と『Larger Than Life』(1975年)の2枚のアルバムを発表。当時、年間300日にも及ぶ強行スケジュールのツアーを組むほど精力的に活動を続けていたが、1976年12月28日、テキサス州ダラスで出血性潰瘍と心不全のため急逝。


<引用元・参考文献『ギター・マガジン 2019年 8月号』ギター・マガジン編集部(編集)/リットーミュージック>


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執筆者
【佐々木モトアキ プロフィール】
https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12648985123.html

【公演スケジュール】
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