1964年9月1日はニューヨークのシェイ・スタジアムで、史上初の日本人大リーガーが誕生した記念日である。
サンフランシスコ・ジャイアンツの「マッシー・ムラカミ」こと村上雅則は、南海ホークスの鶴岡一人の目に留まり、鶴岡から「ウチへ入ったらアメリカに行かせてやる」と口説かれて、高校野球の名門だった法政二高在学中に南海と契約を結んだ。そしてプロ3年目の1964年の春に野球留学で、サンフランシスコ・ジャイアンツへ派遣された。
南海はベースボールの本場であるアメリカに選手やコーチを派遣する試みを、その前の年から始めていたのだ。そして2年目となる野球留学の選手に選ばれたのが村上雅則投手、高橋博捕手、田中達彦内野手だった。
送り出す球団側はこの時、それほど大きな成果を見込んでいたわけではない。というのも村上雅則がわずか3ヶ月間、ルーキーだった二人は1年間の期限付き留学だったのである。
アメリカの選手たちと一緒にキャンプを過ごすことで、本場のマイナー・リーグを体験させたいという期待はあったにしても、将来に向けた施策の一つという程度の扱いだったようだ。
ところがスプリング・トレーニングに特別枠のゲスト扱いで参加した3人の中から、村上だけがジャイアンツ傘下の4軍、1Aのフレズノ・ジャイアンツに配属されることになった。
それからは留学期間の3ヶ月を過ぎても、村上はフレズノ・ジャイアンツで投げ続けて、8月の後半までに11勝7敗、防御率1.78の好成績をあげた。その結果、1Aのカリフォルニア・リーグで新人王を獲得し、ベストナインにも選出された。
ことによるとメジャーへ昇格するかもしれない、そんな可能性があることを知ったのは、8月20日すぎのことだったという。村上は常に辞書を離さずに英語を学ぼうとしていたので、その頃には少しずつだが会話を理解できるようになっていた。
ロッカールームで選手たちが何か話しているので輪のなかに入って聞いていると、成績の良い選手を9月1日からメジャーに昇格させて、実力を確かめてみるということが話題になっているとわかった。
そして監督から「君が選ばれたのですぐにニューヨークへ行くように」と命じられたのが8月29日のことで、翌日にはニューヨークまでの飛行機の切符を手渡された。
ジャッキー・ロビンソンがアフリカ系アメリカ人選手として初めて、メジャーリーグでデビューしたのは1947年だった。彼の著しい活躍と紳士的な態度によって、ようやく有色人種にも扉が開かれることになった。
しかし日本人はもとより、アジア系からはまだ誰一人として、メジャーリーグで通用する選手は登場していなかった。ジャイアンツの選手たちはその日の午後になって、メッツの本拠地のシェイ・スタジアムに乗り込んだ。
マンハッタン島の東側、クイーンズ区にあるシェイ・スタジアムはこの年の春に完成したばかりで、まだ真新しいコンクリート造りの3階建の建物だった。収容人員が約5万7000人(当時)の巨大な球場であった。
ちなみに人気が頂点に達していたビートルズによる、史上初のスタジアム・コンサートが行われたのは翌年の8月15日である。<参照コラム 「ロック・コンサートの新たな時代を切り拓いたビートルズのシェイ・スタジアム公演」>
この日にマイナー・リーグの1Aから3階級を超えてメジャーに抜擢されたばかりの村上が、ブルペンでウォーミングアップしていると登板の連絡が入ってきた。
ブルペンで最後の一球を力一杯投げると、場内アナウンスが「ナウ・ピッチング!ナンバー・テン!マサノリ・ムラカミ」と響いた。
レフトフェンスの扉を開けて場内に足を踏み出し、村上はカクテル光線に照らされた芝生をマウンドへ向かった。その時、緊張のあまりあがってはいけないと思って、坂本九の「上を向いて歩こう」を歌い出していたという。
4万の大観衆の中、「スキヤキ」を口ずさみながらマウンドに進みました。スキヤキ・ソングは全米ヒットナンバーワンになった曲で、当時は毎日のように流れていました。
村上はマウンドに立ってもう一度、「上を向いて歩こう」をハミングしながらスタンドを見上げた。
なぜ、あんな場面で「上を向いて歩こう」のメロディーが口をついて出たのだろう。
別に、それほど気負ってもいなかったし、胸がドキドキしたわけでもなかった。
いま思い返してみても、よくまあ、あれだけ落ち着いていられたものだと思う。
〝若さ〟というやつだろう。自分ではアガッていなかったと思う。
だが、いまになって考えれば、あのとき「上を向いて歩こう」を歌ったのは、やはり心のスミっこで〝アガっちゃいかんぞ、落ち着くんだぞ〟という意識が働いていたのかもしれない。
この夜にメジャーデビューを飾った村上は、MLBサンフランシスコ・ジャイアンツのピッチャーとして、シェイ・スタジアムを本拠地にするニューヨーク・メッツを相手に、8回裏にリリーフ・ピッチャーとして登板して無失点に抑えた。
二人目の大リーガーとなった野茂英雄がさっそうと登場し、快刀乱麻の大活躍するのはそれから30年後のことだ。
(注)本コラムは2013年9月1日に公開したものに加筆しました。なお文中に引用した村上雅則氏の発言は、同氏の著作「たった一人の大リーガー)(恒文社)からの引用です。


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