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「大リーグ150年の歴史で最も重要な40人」に選ばれた野茂英雄と「上を向いて歩こう」の不思議な関係

2024.06.15

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アメリカのスポーティング・ニューズ誌の電子版が、「大リーグ150年の歴史で最も重要な40人」のランキングを発表した。そこで唯一の日本選手、野茂英雄が37位で選出された。

このランキングで1位はベーブ・ルースだったが、選手以外にもMLB初代コミッショナーやスポルディング社創始者、野球統計学の専門家など、大リーグの発展に貢献した偉人たちが数多く名を連ねていた。

その中に野茂の名が入ったのは、新世代の日本人大リーガーが活躍する時代の門戸を開いたパイオニアであったことが評価されたのだ。

「1960年代にサンフランシスコ・ジャイアンツで2シーズンプレーし、日本に戻り、17シーズンプレーしたマサノリ・ムラカミとは異なり、野茂はアメリカでもスターになった。イチロー・スズキ、ヒデキ・マツイ、ユウ・ダルビッシュのようなメジャーで際立つ日本人の新たなジェネレーションの水先案内人として貢献した」


もうひとつ、野茂には奇しくも大リーグ存続の危機を救ったという側面もあった。

野茂が敢然と大リーガーの道を目指して、先の見えない茨の道を歩み始めたのは1994年のことである。1994年のシーズン後に野茂は近鉄バッファローズを退団、二度とプロ野球には戻れなくなる任意引退の道を選び、日本の球界と決別してドジャースとマイナー契約を結んだ。

メジャーリーグに挑戦したいという思いを貫く野茂の夢はただひとつ、メジャーリーグのマウンドで投げることだった。

1995年2月13日、ロサンゼルスのダウンタウンにあるホテルニューオータニで、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ野茂の入団発表記者会見が行われた。

会場には日米両国旗と、英語と日本語で書かれた看板が掲げられ、日米合わせて100人を超える報道陣が詰めかけた。アメリカの3大ネットワークを筆頭に地元局や日本、韓国のテレビ局がカメラ・クルーを入れた。

ロサンゼルスの新聞は金のためではなく、夢のためにアメリカに渡って来たと紹介した。記者会見の場で真新しい白い布地に「Dodgers」「NOMO,16」と刺繍で縫い込まれたユニフォームに袖を通した野茂は、「自分の夢がかなえられるようになってうれしい」と語った。

その扱いは完全にスター級だったが、この日を迎えるまでに日本のマスコミから、野茂は轟々たる非難を浴びせられていた。

日本のプロ野球界から去ったことに対する、ヒステリックなまでの怒りに支配された球界首脳や、プロ野球ファンの一部からも、様々な中傷や嫌がらせとなって発信され、マスコミを賑わせたのだった。

そうした中で不屈の精神でアメリカにやって来た野茂に時の運が味方したのは、野球の神様による配慮だったのかもしれない。

メジャーリーグベースボール(MLB)の選手が1994年8月12日から翌1995年4月2日まで起こしたストライキは、プロスポーツ史上最長のの232日間に及んだ。

その影響でシーズン後半戦とプレーオフ、ワールド・シリーズが中止となり、1995年になっても再開に手間取って、例年より約1ヶ月も遅れて4月の最終週に開幕することになった。

半年以上も選手と経営者の間で年俸などをめぐって争いが続いたことで、メジャーリーグのファンは無視され続ける結果となった。球場から観客離れが起こり、テレビの視聴率が落ちるのは当然である。

しかしストライキ期間中もマイナーリーグは行われていたので、野茂は順調に調整を進めてメジャーに昇格し開幕に間に合った。

そして5月2日、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで、ジャイアンツ戦に先発投手として初登板し、5イニングを投げて投球数91、被安打1、奪三振7、無失点でメジャーリーグでのデビューを飾った。

本拠地のドジャー・スタジアムに初めて登場したのは、3度目の登板となる5月12日の夜7時だった。野茂が試合開始に向けてベンチを出て、ゆっくりとマウンドに歩き始めると場内に音楽が流れ始めた。

ドジャース球団の名物オルガン奏者、ナンシー・ヘフリーさんが演奏する「スキヤキ(上を向いて歩こう)」だった。

彼女が「スキヤキ」を選んだのは「私が知っていた一番有名な日本の曲だったから」で、「異国の地からやってきた彼に、何かの励ましになる」と思って弾いてくれたのだ。

それ以来ドジャー・スタジアムに野茂が登板する日は、必ず彼女のオルガンで「スキヤキ」が演奏されるようになった。

6月2日のニューヨーク・メッツ戦で初勝利を挙げた野茂は16日のピッツバーグ・パイレーツ戦で、16奪三振の快投を披露する。さらに24日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では、日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録した。

大きく振りかぶり、一旦、背中を打者に向けるようにしてから投げる独特のトルネード投法と、鋭い切れ味のフォークボールで真っ向から勝負し、大リーガーの強打者をキリキリ舞いさせる野茂はメジャーリーグの人気投手になっていく。

シーズンの前半戦を終えて6勝1敗、防御率1・99という好成績を上げた野茂は、新人ながらもオールスターゲームに選出された。テレビ中継でその試合を見た日本の視聴者はおよそ1500万人、アメリカでは1300万世帯2600万人と言われている。

そこでも野茂は名誉ある先発投手を務めて、2イニングを無失点に抑える快投を見せた。それはまさに歴史的な瞬間だった。

地元アメリカの選手にはおそらくまねのできなかったことを、日本人選手がやってのけたのだ。
かつて野球選手が持っていた模範的感情を、野茂が取り戻してくれた。
(ロバート・ホワイティング著『野茂英雄 日米の野球をどう変えたか』PHP新書)


一人の日本人がアメリカの国民的娯楽に再び火をつけた。ストライキのせいでMLBへの苦い思いがわだかまっていたファンの心が開放されたのである。

それは太平洋戦争の終結からちょうど半世紀後のことで、誰もが重要な意味を感じずにはいられなかった。かつては敵国だった両国の文化交流に、野球が一役も二役も買っていることをアメリカ人も日本人も痛感した。

衛星中継で映し出される奪三振のシーンが日本のプロ野球界に与えた影響も、計り知れないものがあったと言える。

野茂はそのシーズンを13勝6敗、236奪三振という素晴らしい成績を残して終えた。押しも押されもせぬドジャースのエースとしてチームの地区優勝にも大きく貢献、ナショナル・リーグの新人王と奪三振王にも選ばれた。

やがて野茂英雄によって勇気と希望を与えられた日本の選手たちが、彼が切り開いた道を通って続々とメジャーリーグに挑戦していくようになる。

ところでにわかには信じ難いことなのだが、野茂のメジャーリーグ入りが報じられた冬頃から、「スキヤキ」がアメリカとカナダで3度目となるヒットを記録していた事実を付け加えておきたい。

筆者は日系人が数多く暮らしているカリフォルニア州のフレズノという街で、老人ホームに行って話を聞かせてもらったことがある。

太平洋戦争中に財産を没収されて強制収容所に送り込まれ、戦後になっても二級市民と位置づけられた日系人は、人間として同等には扱われずに悔しい思いを堪えながら苦労を重ねてきた。

そうした長年の屈辱感や蔑みを受けた嫌な思いを、最初に撥ね除けてくれたのは坂本九が日本語で歌う「スキヤキ」だった。

日本語の歌がアメリカに受け入れられて大ヒットしたのは1963年の春から夏にかけてだったが、全米ヒットチャートで1位になったおかげで、日系人は再びアメリカ社会に受け入れられたように思えて自信を取り戻したという。

「SUKIYAKI」が大ヒットした翌年、フレズノのマイナーリーグで研修を受けていた南海ホークスの村上雅則が、大抜擢されてサンフランシスコ・ジャイアンツに昇格し、ニューヨークでメッツ戦に登板して初の日本人大リーガーとなった。

実力と実力がぶつかるベースボールの世界で、日本人投手が三振でバッターを打ち取る場面が見られる時代が来たのだ。

初登板でニューヨークのシェア・スタジアムのマウンドに向かって歩きながら、村上は気持ちを鎮めるために「上を向いて歩こう」を口ずさんでいた。

1964年に日本人の大リーガーが誕生したことは、「ジャップ」と呼ばれて肩身の狭い世界で暮らしていた多くの日系人に、希望と勇気を与えてくれたという。

だが村上は1964~65年に計54試合に登板して5勝1敗9セーブの成績を残し、南海ホークスに呼び戻されて日本に帰国した。

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それから30年の歳月が過ぎて野茂のドジャース入団の記者会見が行われたとき、『ビルボード』誌の全米ヒットチャートでは「SUKIYAKI」が前週に引き続いてベストテン入りし、2月11日付で赤丸上昇中の第8位にランクされていた。

歌っていたのはボルチモア出身の黒人コーラス・グループ、4P.M. である。これはテイスト・オブ・ハニーが1981年にアメリカで大ヒットさせた英語詞によるカヴァーだが、こちらはア・カペラ(無伴奏合唱)だった。

彼らが1994年に出したアルバム『ナウズ・ザ・タイム』は、ビルボード誌のR&Bチャートで一週96位に入っただけで、芳しい成績を残すことは出来なかった。

しかしシングル・カットした「SUKIYAKI」だけが、なぜかひとり歩きし始めていたのだ。


ラジオから火がついて北米に広まった「SUKIYAKI」は、年末から年明けにかけて本格的にブレイクを果たした。

ビルボード誌のHOT100で1月21日にベストテン入りし、そこから10位、9位、8位とひとつずつ順位を上げて最高位は8位だったが、息の長いロングセラーを記録、ゴールドディスクを獲得したのだ。カナダでは4月15日から2週連続でナンバーワンとなり、夏の終わりまでヒットを続けた。

そしてドジャースタジアムでは野茂が登板する時、ナンシーさんが必ず「スキヤキ」をオルガンで生演奏していた。

スキヤキ・ソングこと「上を向いて歩こう」は当時のアメリカ人にとって、なじみのある耳懐かしいオールディーズで最新のヒット曲でもあった。また日系人や日本人にとっては日本の象徴で、野茂にとってこれ以上に相応しい曲はなかったと言える。

ちなみに1964年の坂本九は1位、1981年のテイスト・オブ・ハニーが3位、それに続いて4P.M. も8位となって、同一曲で3回もベストテン入りするのは、全米チャート史上でも異例中の異例のことだった。

坂本九『上を向いて歩こう』
EMIミュージックジャパン

佐藤剛『上を向いて歩こう』(書籍)
岩波書店

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