1971年7月6日、“サッチモ”の愛称で親しまれたジャズ界の巨人ルイ・アームストロング(享年69)が、ニューヨーク州クイーンズ区にある自宅で永遠の眠りについた。
死因は心筋梗塞とされている。
死の一ヶ月前、ニューヨークのホテルショーに出演した直後に心臓発作を起こし、そのまま病院に運ばれ数週間の入院生活を終えて自宅で静養中だったという。
葬儀は7月9日に自宅近くのコロナ会衆派教会で行われた。
葬儀にはロックフェラー州知事、リンゼイ市長らの政治家から、デューク・エリントン、ベニー・グッドマンらのミュージシャンなど各界の著名人達が参列した。
「ルイの影響を受けていないトランペット奏者はいない。彼のやることはすべて正しい。彼がいなかったら俺は何もできなかったと思うよ。」(マイルス・デイヴィス)
「ルイこそミスタージャズだ!」(デューク・エリントン)
「いろんなトランペット奏者の良いところを盗もうと思ったけれど、ルイからは盗むことができなかった。とにかく凄すぎるんだ!」(ウィントン・マルサリス)
葬儀の最後は盲目歌手アル・ヒブラーが、彼の故郷ニューオーリンズの葬儀に欠かせない「When The Saints Go Marching In(聖者の行進)」を歌って締めくくった。
一方、彼を生んだニューオーリンズの街では、ジャズ博物館のサッチモ・コーナーに花環が飾られ、ジャズの殿堂プリザベーションホールでは彼のために「Nearer, My God, to Thee(主よ御許に近づかん)」が演奏された。
真夏の陽射しが照りつける街頭では、彼を天に送り出すべくジャズ葬が行われ、霊柩車を中心にセカンドライン(ブラスバンドを伴った伝統的なパレード)が長い列を作った。
その車の中に彼の棺はなかったが、人々の手には“SAT-CHIMO’S SPIRIT LIVES ON FOREVER(サッチモの魂は永遠に)”と書かれた幟(のぼり)が掲げられていた。
墓地での埋葬をかたどって霊柩車を送り出したところで、ブラスバンドのドラムが連打を始める。
同時にセカンドラインから大歓声が湧き上がる。
それまでのしめやかな演奏からうって変わって、陽気なリズムに合わせて人々が熱狂的にスウィングを始める。
ここでもやはり最後は「When The Saints Go Marching In(聖者の行進)」で締めくくられたという。
この「When The Saints Go Marching In(聖者の行進)」は、サッチモの代名詞にもなったディキシーランドジャズの名曲である。
作詞作曲者は不明で、その歌詞やアレンジには様々なバージョンが存在する。
この歌は17世紀に始まった北アメリカへの黒人奴隷貿易によってアフリカから連行されてきて強制労働させられていた黒人たちが、白人の教会から流れてくる美しい調べに心を洗われ、自分たちの固有のリズムに乗せて自然発生的に歌い始めたものと言われている。
そんな歴史を持つ黒人霊歌を、ジャズの世界へいち早く取り入れたのがサッチモだった。
黒人たちが多く住んでいたニューオーリンズでは、人が亡くなると葬儀場から墓地までは静かでわびしげな葬送曲や賛美歌を演奏し、死者の埋葬が終わると一転して明るく活気のある曲を演奏して帰路につく風習(Jazz funeral)があったという。
一体どうして死者を明るく見送ったのだろう?
埋葬の後に明るい曲を演奏するのには“魂が解放され天国へ行くことを祝う”という意味があるのだ。
奴隷という一生逃げ出すことのできない存在だった黒人ですら、亡くなってしまえば辛い労働から解放される。
当時の黒人たちにとっては亡くなることはむしろ“おめでたいこと”という感覚が根付いていたのだと考えられる。
だからこそ明るい曲で天国へと送り出そうとして歌われるようになったのが、この「When The Saints Go Marching In」というわけだ。
タイトル及び歌詞中に何度もくり返し登場する“The Saints”には、「聖者」の他に「死者」という意味がある。
その歌詞は宗教色が強く、特に「ヨハネの黙示録(the Book of Revelation)」の内容が歌詞の随所に盛り込まれているという。
聖者が行進していく時
聖者が行進していく時
神よ、私もそこに居たいのです
聖者が行進していく時
<引用元・参考文献『ルイ・アームストロング―少年院のラッパ吹き』川又一英(著)/メディアファクトリー>
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