南青山にあった伝説のレコード・ショップ「パイド・パイパー・ハウス」は、1975年11月にオープンしてから足かけ14年間の営業で1989年6月に閉店した。
日本では1989年からレコード会社の発売する新譜が全面的にCDへと切り替わり、アナログ・レコードの生産がほぼストップしている。
したがってパイド・パイパー・ハウスが閉店したのは、レコード文化というひとつの時代が終わったことの象徴でもあった。
店名はグリム童話やロバート・ブラウニングの詩で知られる北ドイツ、ハーメルンに伝わる伝説の笛吹き男から名付けられたものだ。
開店した当時の港区南青山5丁目はまだのんびりした住宅地の風情が残っていて、246通りから骨董通りを曲がってすぐの一角にあったパイド・パイパー・ハウスも、ビートルズで育ったかつての音楽少年たちが店を始める前は乾物屋さんだった。
人通りもさほど多くない場所にできた共同経営のいささか風変わりな店には、ロックの輸入盤を中心にして少数の邦楽のレコードがメインで、現代音楽から民族音楽、輸入小物や雑誌、ミニコミまでこだわりの品々が並んでいた。
「音楽を中心とした新しい空間を」目指した店の一角には、大きな木の切り株をテーブルにしてちょっとした喫茶スペースも設けられた。
常連だった細野晴臣や山下達郎、南佳孝、佐野元春らのミュージシャンたち、音楽評論家や雑誌編集者、若きクリエイターなどが顔を合わせて、話に花が咲くことは日常茶飯事だった。
閉店後も深夜まで貸切状態で、ビールやワインも飲めたので酒場の風を呈することもあったという。
当時はコピーライターだった糸井重里が小泉今日子との対談企画で語っているなかに、70年代のパイド・パイパー・ハウスが出てくる。
小泉 その頃の原宿って、どんな感じでしたか?
糸井 これはぼくだけの感じ方かもしれないけど、原宿は、なんだか離れ小島のようでした。城塞都市というわけではないんだけど、緑も多いし、ちょっと島っぽいというか。だから、へんな人はここに集まっちゃったほうが楽、みたいなところがあったんです。
小泉 離れ小島。
糸井 スーツ姿の人がほんとに少なかったですよ。セントラルアパートにあった広告会社の営業マンたちも、ほとんどスーツじゃなかったと思う。
<略>
ロンドンブーツが流行れば、みんながロンドンブーツ履いてる。原宿はそういうところで、スーツじゃない人たちの島だった、という気がしますね。ぼくの気分では、なにか、こことロサンゼルスがつながってたんですよ。
小泉 原宿とロサンゼルス。
糸井 そう。青山の骨董通りを少し入ったところの角にパイド・パイパー・ハウスっていうレコード屋があって、そこで輸入盤のレコードを買ってくるやつがいたりしてね。
小泉 うん、うん。
糸井 それから、セントラルアパートに、ブライアン・フェリーが来たりとか。
小泉 へぇえー。
糸井 セントラルアパートって、建物の中心に中庭があって、そこを囲んで吹き抜けになっていたんです。それぞれの部屋の入口が中庭に面していて、「ブライアン・フェリーが来たぞ」っていうと、みんながこう、見に出てくる。
(全文はこちら⇒「ほぼ日刊イトイ新聞2011-03-07」)
パイド・パイパー・ハウスは確かに音楽を通して、ロサンゼルスとつながっていたのかもしれない。
他の店ではなかなかお目にかからない珍しい輸入盤のレコードが、ロスのショップのように並んでいただけでなく、1枚のレコードをめぐってアーティストやその周辺、ルーツまでを含む情報が伝えられていた。
そうした方向性がさらに充実していくのはシュガーベイブやティン・パン・アレーのマネージャーだった長門芳郎が、1977年12月に同店のスタッフに加わってからである。
アメリカでは廃盤になったレコードや過剰在庫の処分品は、ジャケットの角がカットされて通常の流通を外れた廉価盤となって出回る。
長門は複数のカット盤卸業者から届けられる膨大なリストをチェックして、店の目玉になるようなレコードを選び出しては、それらをオーダーして店に並べた。
当時の歴代ベストセラーの中でも特にパイド・パイパー・ハウスらしいのは、1975年に英MCAからリリースされた『Hoagy Carmichael Sings Hoagy Carmichael』だった。
これは「スターダスト」や「我が心のジョージア」ほか、数多くのスタンダード・ソングを書いたアメリカのソングライター、ホーギー・カーマイケルが自作品を歌った1954年リリースの古いアルバムである。
その地味なレコードが良く売れたのは細野晴臣の「香港ブルース」(1976年)や、ザ・バンドの「我が心のジョージア」(1977年)で、期せずしてカーマイケル作品のカヴァーが発表されていたからだ。
廉価盤ということもあってオリジナルを聴いてみたいという音楽ファンが購入してくれた。
良いレコードであれば洋楽・邦楽を問わず、輸入盤以外でも積極的に扱うというパイド・パイパー・ハウスの姿勢は、当時の一般的なレコード店に比較すれば際立っていた。
松本隆がプロデュースした南佳孝のデビュー・アルバム『摩天楼のヒロイン』が、1973年の発売から3年が過ぎて品切れになったままだったのを知り、レコード会社に300枚の再プレスを要望して1店だけで100枚を売り切ったこともある。
1979年から80年にかけて話題を集めたRCサクセションのアルバム『シングルマン』再発運動のときも、「シングル・マン再発売実行委員会」の拠点はパイド・パイパー・ハウスに置かれていたのだ。
一橋大学在学中の1980年に田中康夫が執筆して第17回文藝賞を受賞した小説『なんとなく、クリスタル』にもこの店が登場している。
六本木へ遊びに行く時には、クレージュのスカートかパンタロンに、ラネロッシのスポーツ・シャツといった組み合せ。ディスコ・パーティーがあるのなら、やはりサン・ローランかディオールのワンピース。輸入レコードを買うのなら、青山のパイド・パイパー・ハウスがいい。
もちろん田中康夫は作家となってからも常連となり、3000枚のレコード・コレクションから選び抜いた100枚のレコードを紹介した単行本『たまらなく、アーベイン』(文庫版「ぼくだけの東京ドライブ」)は、パイド・パイパー・ハウス詣でがなければ生まれなかっただろう。
こうしたユニークな店にはミュージシャンばかりでなく、新しいライフスタイルを求めるクリエイターや若者たちが集まり、ロックからMORまで幅広い音楽ファンが育っていった。
パイド・パイパー・ハウスのお客さんでもあったポップス・マニアの若者たちによって結成されたグループに、ピチカート・ファイヴがいる。
デビュー前からデモ・テープが完成する度に店に届けててくれていたピチカート・ファイヴの音楽センスに惚れ込んだ長門は、彼らのマネージメント・オフィスを作ることになる。
その一方で長門は海外アーティストのコンサートをプロデュースし、ヴァン・ダイク・パークスやドクター・ジョンを筆頭に、フィービ・スノウ、ジョン・サイモン、ローラ・ニーロ、NRBQ、MFQなど多くの来日ツアーを手がけた。
パイド・パイパー・ハウス閉店後、長門は海外アーティストのレコード制作とコンサートに携わりながら、数多くの洋楽アルバム/CDのリイシュー企画と監修でも名を馳せている。
<追記>2017年11月1日
2016年7月15日に渋谷タワーレコード5階に6か月の期間限定でオープンした『PIED PIPER HOUSE in TOWER RECORDS SHIBUYA』は、オープン後の好評を受けてさらに営業期間を延長することが決定して営業中です。
*なお本記事は2015年7月31日に初回公開されたものを加筆修正しました。
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