日本を代表するセッション・ギタリストの松原正樹がソロ・デビューから35周年の区切りを迎えて、東京の六本木STB139でアニバーサリー・ライブを行ったのは2013年11月21日だった。
それを収録したアルバム『松原正樹/35th Anniversary Live』は、翌年にCD化された。
長いキャリアの軌跡をたどったそライブで圧巻だったのが、それまでレコーディングに携わってきたヒット曲による「松原WORKSメドレー」だった。
70年代から80年代にかけて発展していった音楽シーンに欠かせないギタリストとして、多方面に影響を与えてきた名フレーズを聴くことができる。
「愚か者」(近藤真彦)~「北ウィング」(中森明菜)~「カナダからの手紙」(平尾昌晃 畑中葉子)~「中央フリーウェイ」(荒井由実)~「渚のバルコニー」(松田聖子)~「長い夜」(松山千春)~「微笑がえし」(キャンディーズ)~「六本木純情派」(荻野目洋子)~「真珠のピアス」(松任谷由実)~「案山子」(さだまさし)~「さよならの向こう側」(山口百恵)~「冷たい雨」(ハイ・ファイ・セット)~「瞳はダイアモンド」(松田聖子)
(「松原WORKSメドレー」は2分00秒から4分24秒)
福井県の武生市(現・越前市)に生まれ育った松原が初めて買ったアルバムは、オクターブ奏法で一世を風靡したジャズ・ギタリストのウェス・モンゴメリーだった。
ギターのアルバムが欲しいと思っていたんだけど何の情報もないものだからレコード屋さんへ行って、ギターが写ってるやつとかギターを弾いてる姿が写ったやつを探してね(笑)。
これは絶対ギターのアルバムに違いない!と思って買ったのがウエス・モンゴメリーだったんですよ。
それで聴いたら初めて聴く音でね。
どうやって弾いてるのか全然分からないし……。
「あれ? なんでこんな音するんだろう?」っていう不思議な音だし。
真似しようと思っても全然できなくてね。
松原は中学のブラスバンド部に入ってトロンボーンを吹いていたが、当時はプロのミュージシャンになりたいと思って、毎日の練習に励んでいたという。
しかし、中学2年でギター出会ってからはなんとかギターを弾けるようになりたいと、クラブ活動を終えて帰宅すると、ずっとギターに向き合う毎日となっていった。
中学を卒業したらそのまま都会に出てギタリストになりたいと親に頼んだところ、「高校だけは行きなさい」と説得されて高校に入学した。
レッド・ツェッペリンやクリーム、ジミ・ヘンドリックスが活躍した時代だったので、「ジミヘンのこのアルバムいいよ~」というように、学校が情報交換の場みたいになった。
同級生たちもロックを聴き出していたためにバンド活動に熱中した。
高校を卒業後はヤマハ・ネム音楽院(現・ヤマハ音楽院)で学んで、そこの先生の助言で半年後に上京すると、米軍キャンプのバンド等を経てプロになった。
そしてハイ・ファイ・セットのバックバンドを務めていたときに、シングル「冷たい雨」のレコーディングで、アレンジャーの松任谷正隆に呼ばれた。
「間奏のソロやってもらうから考えといて」って言われて、オケの演奏をカセットテープでもらって、レコーディングの日までいろいろ考えたんですよ。
「あ、これかっこいいなー」ってね。
それを当日弾いたのね。
そしたら「いや、そういう んじゃなくてさ」って言われて(笑)。
「えー? これダメなの? せっかく考えたのに……」。
「なんかテキトーに弾いてよ」っていうからテキトーに弾いたら「あ、それそれ! OK」って。
最初はダメ出しされた松原が、その場であっさりとOKをもらってわかったのは、「あまり考えたらよくないんだな」ということだ。
はっぴえんどやティン・パン・アレーの流れをくむアレンジャーやプロデューサーたちは、完璧にフレーズを指定する譜面を使うことは滅多になかった。
彼らにスタジオ・ミュージシャンが求められたのは、その場でひらめいた新鮮なフレーズであり、本質として持っている個人の音楽的センスだったのだ。
それ以来、松原はそのフレーズがなければこの歌が成立しないというくらい、歌に寄りそったメロディックなギター・ソロを意識して弾くように心がけたという。
もちろん明らかにアドリブを強調するように要求されれば、それに応えて奔放に弾くことも出来たから仕事が殺到するようになった。
1976年にヒットしたハイ・ファイ・セットの「冷たい雨」はギター・ソロも好評で、松原はバックバンドで活動しながらも、売れっ子のスタジオ・ミュージシャンとなっていった。
最初のうちは「スタジオミュージシャンはつらいな」って思ったね。
全然自分が考えているような音にならないのね。
勝手にいじられちゃうっていうか。
それでだんだん器材が増えていって、エフェクターや器材に頼ったりしてね。
だんだん自分で自分の音出せるようになっていって。1回好きな音が出せるようになると、どんな器材を 使っても出したくなっちゃうからね。
そして1980年に入った頃になると、「聴けば一発でわかる」という個性的な音色とフレーズを確立する。
完璧な音色とその音作りの早さ、的確なアレンジで10000曲をこえるセッションで活躍しつつ、1978年からは21枚のソロ・アルバムを発表して音楽家としての道を究めていった。
最後の印象的な仕事は2015年の夏に開催されたイベント、松本隆の作詞活動45周年記念の「風街レジェンド」だった。
松本をリスペクトする多くのシンガーとミュージシャンが、その功績を讃えるために集まったスペシャルなイベントには、夭逝した大瀧詠一こそいなかったが、細野晴臣、鈴木茂と3人のはっぴいえんどが登場した。
そして太田裕美、原田真二、大橋純子、石川ひとみ、中川翔子、美勇士、イモ欽トリオ、山下久美子、早見優、鈴木准、伊藤銀次、杉真理、佐野元春、鈴木雅之、稲垣潤一、南佳孝、鈴木茂、小坂忠、矢野顕子、吉田美奈子、斉藤由貴、EPO、寺尾聰と、多彩なゲストが出演した。
それを演奏で支えた「風街ばんど」のキーボードは音楽監督が井上鑑、ギターは松原正樹と今剛、ドラムには林立夫も参加していた。
井上鑑、松原正樹、今剛、林立夫の4人といえば、70年代の後半から80年代にかけて「パラシュート」として活躍した伝説のフュージョン・バンドのメンバーでもある。
松原正樹は癌になって闘病していたにもかかわらず、最後まで見事にギタリストとして人生を全うしたといえる。
(注)松原正樹氏は2016年2月8日に亡くなられました(享年61)。本コラムは2016年2月11日に公開した内容に加筆し、改題したものです。なお引用した本人の発言は、「ギターラボ 松原正樹さんインタビュー」によるものです。
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