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ルビーの指環物語・前編〜29歳で経験した大病、石原裕次郎の一声、担当プロデューサーの戦略

2019.02.05

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「指環」と書いて“ゆびわ”と読ませたこの昭和歌謡を代表するミリオンセラーソングは、寺尾聰の5thシングルとして1981年2月5日にリリースされた。
クレジットには作詞:松本隆、作曲:寺尾聰、編曲:井上鑑と記されている。
当時33歳だった寺尾の歌手としての出世作であり、彼にとって最大の売上を記録した作品である。
リリース当初はさほど売れていなかった一曲の歌が、発売から約1ヶ月程経った後から徐々に売上を伸ばしていき…同年3月30日付のオリコンシングルチャートで1位を獲得するという快挙を遂げた。
同時期に人気テレビ番組・TBS系『ザ・ベストテン』でも12週連続1位という最長記録を樹立し、この記録は放送終了まで破られなかったという。
同年12月31日には第23回日本レコード大賞を受賞。
また、作詞者の松本隆は同賞の作詞賞、作曲者の寺尾は作曲賞、編曲者の井上鑑は編曲賞を受賞し、楽曲製作者に贈られる3タイトルを総なめにしている。


さて今回は、これほどまでに“売れた歌”にまつわるエピソードを前後編に渡ってご紹介します。
いったいどんな経緯で楽曲が誕生したのか?
担当プロデューサーが仕掛けたプロモーション戦略とは?


──当時、石原プロで俳優として活動していた寺尾聰は29歳の時に大病を患った。
病名は、穿孔(せんこう)性胃潰瘍。
胃に穴が空くほどの激痛を伴う症状だったという。
それまでなんの前兆もなく、ある日急に胃に痛みを感じて動けなくなり、自分で救急車を呼んだという。
4日間も意識不明となり、この病気の手術で胃の80%を切除した寺尾は、体重を20キロ以上も減らすほどの状態だった。
術後は体力も戻らなくて仕事をセーブするしかなく「これで(俳優を)辞めるのか…」と覚悟したという。
退院後のリハビリ中に「食うために何か収入を得ないと」と思い立ち、かつて作っていた楽曲をまとめた6曲入りのデモテープを持ってレコード会社に売り込んだ。
その中に、この「ルビーの指環」も入っていたという。
ところが、当時この歌がこれほど売れるとは誰も予測していなくて、石原プロモーションの関係者に聴かせたところ、小林正彦専務は「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない!」と難色を示したという。
そんな中、当時の社長・石原裕次郎の「まぁいいじゃないの!」の一言でレコード化が決定したのだ。
こうしてリリースされ大ヒットとなった曲の影には、ある戦略を仕掛けたプロデューサーの存在があったという。

「これが勝負作になる!」

当時、寺尾が持ち込んだ6曲入りのデモテープを受け取った東芝EMIのプロデューサー・武藤敏史は、そう確信した。
“寺尾聡プロジェクト”と称された戦略の指揮を任された武藤は、そのデモテープに収録されていた1曲に何か直感を感じたという。
そして寺尾にとって3rdシングルとなる「SHADOW CITY」、そして4thシングルの「出航 SASURAI」と併せて“3部作”となるヒットへの筋書きを書いた。

「発売するタイミングが難しかった。「SHADOW CITY」が1980年の8月、「出航 SASURAI」が2ヶ月後の10月。3部作という考え方からすると、その次は12月リリースが妥当だった。だけど、年末はプロモーション活動が制限されてしまうし、1月もビジネスとしてはかなり厳しい。本当は当時2月のリリースもあまりよくないという話もあったんですが、あまり間隔を開け過ぎてもよくないだろうということで2月5日の発売が決定したんです。」

この「ルビーの指環」を完成させるにあたって、武藤には初めから決めていたことがあったという。
それは、作詞家に松本隆を起用することだった。

「寺尾の世界というかイメージでもある“大人の感じ”を、隆なら上手に描いてくれるんだろうと思ったからです。もちろん若い子に書く歌詞も凄くいいんですが、彼なら絶対にいい作品を作れるという確信がありましたからね。」

そしてこの起用には当時、武藤が持っていたある“こだわり”が大きく関係していたという。
武藤が初めて東芝に入ったときには、邦楽は2つの課に分かれていて、一課はいわゆる歌謡曲を専門に扱っていて(セールスという面では)あきらかに勢いがあったという。

「いわゆるブランド物を身につけた社員が20〜30人くらいいるんです。」

それに対して武藤が配属された邦楽二課は、フォークやロックを扱っており人員が全部で4人しかいなかった。

「一課に対して対抗意識が強かったんです。“打倒歌謡曲”ですよ。そんなこともあって、それまでは“歌謡曲に歌詞を書くような作家は絶対に使うもんか!”と意地みたいなものがありました。」

だが、松本隆がはっぴいえんど出身で、しかも同じ世代ということもあって、武藤は松本に“仲間意識”を持っていたのだという。

「“絶対いいものを書いてよ!”と言っただけで、他に何も注文はしませんでした。」

松本もその信頼に応えて、全く手直しをすることのない完璧な作品を用意した。



<引用元・参考文献『J-POP名曲事典300曲』/富澤一誠(ヤマハミュージックメディア)>

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