T2U音楽研究所を主宰する臼井孝によれば、桑田佳祐はバンドでもソロでも1000万枚以上を売り上げた、日本で唯一のアーティストだという。(注)
1978年にシングル「勝手にシンドバッド」でデビューした当初は、コミックバンドのように思われたり、一発屋的な見方をされたこともあった。
だが3枚目のシングル「いとしのエリー」でバンドとしての評価を確かなものにしてからは、音楽的な成長を着実に遂げて大きな成功を収めていった。
そしてサザンオールスターズはいつしか、国民的なバンドと呼ばれるまでになったのである。
その一方で1988年の『Keisuke Kuwata』からはバンド活動と平行して、ソロ活動を始めて実に多様な活躍を続けながら今日に至っている。
桑田佳祐は1993年に<Act Against AIDS>のイベントに参加したことをきっかけに、日本のスタンダードを確立する役割を果たすようにもなっていく。
1993年12月1日に日本武道館で開かれたコンサート、「Act Against AIDS ’93」では美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を取り上げて歌った。
子供の頃にどこかで聞いたという記憶と、なぜか歌えるくらいには曲を覚えていたことが動機だったという。
その後も桑田佳祐は1994年9月に行われたソロ名義による初の全国ツアーで、「ヨイトマケの唄」をレパートリーして歌い継いでいった。
さらに21世紀に入ってからも自分のテレビ番組、『桑田佳祐の音楽寅さん ~MUSIC TIGER~』でスタジオ・ライブの形で披露した。
そしてオンエアの際には、「この唄は、俗に放送禁止用語と呼称される実体のない呪縛により長い間、封印されてきた。今回のチョイスは桑田佳祐自身によるものであり、このテイクはテレビ業界初の試みである」というテロップも流れた。
「桑田佳祐が選ぶ20世紀のベストソング」で歌われた「ヨイトマケの唄」が、ソロのベスト・アルバム『TOP OF THE POPS(トップ・オブ・ザ・ポップス)』に収録されたのは2002年のことだ。
このようにして忘れられつつあった「ヨイトマケの唄」に、桑田佳祐は四半世紀ぶりに新しい命の火を灯したのである。
やがて放送禁止というくびきから解き放たれて、「ヨイトマケの唄」は様々な歌手たちにカヴァーされるようになり、歌に内在する生命力によって広く共感を得ていった。
桑田佳祐は幼い頃から、あらゆるジャンルの音楽に囲まれて育った。
バーや割烹、麻雀荘などを経営する父親は、スウィング・ジャズとマンボ、それに歌謡曲が大好きだった。
家には沢山のLPレコードと大きなステレオ、それにオープンリールのテープ・デッキまで揃っていた。
茅ヶ崎では最も早く洋楽のレコードをステレオで聴ける家、それが桑田家だったという。
もうひとつ、1964年からビートルズに夢中になった4歳年上の姉、えり子の影響もまた大きかった。
夜の時間帯に両親が水商売で働いていた桑田家では、小学校が終わって帰宅したえり子が母親代わりとなって幼い弟の面倒をみた。
夜遅くまで二人一緒に過ごす時間、えり子は毎晩のようにビートルズのレコードを弟と一緒に聴いていた。
家であねきが噛み付くようにビートルズを流して聴いているのを一応一緒に付き合ってはいたけれど………。ほら、俺も調子がいいからあねきに「いい、いい、いいんだ、このヤロウ」なんてやられるから、小突かれないために「最高だよね」とか言ってただけの話でね。
(桑田佳祐著『ブルー・ノート・スケール』ロッキング・オン)
姉に付き合って聴いていた期間が終わり、自分で買ったアルバムの『リボルバー』や『ラバー・ソウル』を聴いたとき、桑田佳祐は初めてビートルズの音楽にショックを受けたという。
だからビートルズが音楽的に大きく変化した1967年以降のロックから、強く影響を受けたのだという自覚を持つようになったのだ。
しかし50代になってからはそうしたロック体験よりも前に、テレビから歌が聞こえていた幼いころのポップス体験が、実は自分の音楽の本質だったと語っている。
ディープ・パープルも悪くないけど、やっぱり自分の本質はロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』や坂本九の『上を向いて歩こう』なんだよって。
(総力特集 桑田佳祐クロニクル 『SWITCH』2012年7月号)
アメリカンポップスにおける不朽の名曲、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」は1963年10月に全米チャートで最高2位のヒットを記録した。
そのわずか3か月前には坂本九が日本語で歌った「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」が、3週連続で全米チャートの1位に輝く快挙を成し遂げていた。
そう考えると『Act Against AIDS ’00 「桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソング」』と、『桑田佳祐Act Against AIDS 2008 昭和八十三年度! ひとり紅白歌合戦』の両方で、「上を向いて歩こう」が歌われていたことは当然だったとわかってくる。
そしてそれらのイベントで歌われた歌の数々こそが、そのまま日本のスタンダードとして音楽史に残る作品だったことに気づかされる。
かつての名曲の数々に生命を吹き込み、ときには蘇らせて次世代へと継承する。
そんな役割を果たした桑田佳祐の功績は、日本の音楽史においてとてつもなく大きいものだと言える。
(注1)(参照・日経トレンディネット「祝還暦! 桑田佳祐のスゴさが分かる5つのヒット分析」)
http://sas-special-kuwata.net/

