1957年の正月、有楽町駅前にあった日劇ミュージックホールでは、美貌の青年歌手・丸山明宏(現・美輪明宏)が初出演して話題を集めていた。
ガウチョ(カウボーイ)の扮装でアルゼンチン・タンゴをうたい、中盤ではスペイン語の「ベサメ・ムーチョ」やシャンソンの「私のジゴロ」を披露し、最後はエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を熱唱した。
初の日劇出演を激励するために駆けつけた作家の三島由紀夫は、公演終了後に楽屋を訪ねたところを、取材に来ていた記者たちに囲まれた。
戦後世代の行動する若手作家として注目されていた三島由紀夫は、文壇における評価が高いだけでなく、次々にベストセラーを出して人気が頂点に達していた時期にあった。
小説や戯曲を書くほかにも、歌舞伎、能、映画、バレエからスポーツまでを明晰な頭脳で論じて、文化人しての影響力は特に大きかった。
三島由紀夫はコメントを求められたことから、歴史に残るこんな名言を口にした。
「丸山くんの美しさは『天上界の美』ですよ」
音楽雑誌「ミュージックライフ」の1957年8月号には、「話題のシスター・ボーイ 丸山明宏とはどんな男?」という特集記事が掲載された。
僕はシャンソン歌手を手段として 僕の持つパーソナリティを最大限にひき出して人に見せる、極端に云えばワンマン・ショー、自分で企画、構成、舞台装置、衣裳、照明全部をやる〝自分の夕べ〟を計画して居ります。
そこで語っていた言葉は、今でも続けられているコンサートツアー「美輪明宏/ロマンティック音楽会」そのものだった。
美輪明宏はまさに有言実行のアーティストである。
シャンソン界における異端にして革命児だった丸山明宏はここから将来の目標に向かって、ひとずつ時間をかけて現実のものとしていったのだ。
そのときに常に観客の立場児で、深い洞察力で的確に批評してくれたのが三島由紀夫、編曲とプロデュースを引き受けたのが音楽家の中村八大だった。
1963年6月15日、中村八大が作曲とプロデュースを行った「上を向いて歩こう」(作詞:永六輔 歌:坂本九)が全米ヒットチャートで3週連続で1位を獲得するという、日本の音楽史に残る金字塔を打ち立てた。
そして11月8日、「丸山明宏リサイタル 丸山明宏作品集」が東京・大手町のサンケイホールで開催された。
これは自ら作詞作曲した楽曲だけで構成したコンサートで、日本に初めてシンガー・ソングライターが登場したことを示す出来事だった。
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美輪明宏の自伝「紫の履歴書」(水書房)にはその日、コンサート終演後の中村八大への感謝と三島由紀夫への思いが記されている。
万雷の拍手とはこのことをいうのだろう。嵐のような掛け声や拍手の中を指揮の中村八大氏と握手をする。彼の手は暖かく、しっかりと力強かった。その潤んだ眼、僕は全ての言葉を感じ有難く受けた。終演後の楽屋は人、人、人の波で凄まじかった。その中をかきわけて、作家の三島由紀夫が駆け寄ってきて一言、「これこそ歌だよ!」と言った。
マスコミに同性愛者であることを公言したことで非難を浴びて以来、世間からはキワモノと見られていた丸山明宏だったが、このリサイタルを機にシンガー・ソングライターとしての地位を確立した。
さらには俳優、タレント、演出家としても独自の美意識で、確固たる世界を築き上げていくことになるのである。
その人生をたどったドキュメンタリー映画『黒蜥蜴を追い求めて』を製作したフランス人監督、パスカル=アレックス・ヴァンサンはこう語っている。
フランスでは、日本文化といえば三島由紀夫、寺山修司、深作欣二、横尾忠則、宮崎駿そして北野武が有名だ。とてもよく知られている。美輪さんはその全員と一緒に仕事をしている。何てすごいんだろう!
作品を撮ってみて、私が美輪さんが大好きな理由がひとつはっきりした。美輪さんはマイナーなところから出発して、今はメインストリームで多勢に愛されているのだ。どれほど大変な道のりだったことか!
美輪明宏はさまざまな人との出会いから生まれた歌や芝居のエッセンスを、自らの手で大切に育てながら次の時代へと遺すことに、今でも全力を注いでいる。
そうした表現活動を支えてきたのは時代の寵児となった天才たちと出会って身につけた、ほんものの表現者だけが持つ自信と余裕なのだろう。
「美輪明宏の世界~おしゃべりとシャンソン~」
東京都 東京芸術劇場 プレイハウス
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