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不滅のプロテスト・ソングとしてチェコで歌われていたビートルズの「ヘイ・ジュード」

2018.08.27

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チェコスロヴァキアでは1968年の初頭から共産党第一書記のアレクサンデル・ドプチェクの指導の下で、知識人や学生を中心に民主化運動が展開された。
3月に検閲制度を廃止したドプチェクは、国民に言論と芸術表現の自由を保障した。
ついで4月には新しい共産党行動綱領で、「人間の顔をした社会主義」を目指すことを打ち出す。

これを受けて人々は社会のあり方や政治について議論ができるようになり、新たな政党の結成の動き現れる一方で、密輸入したレコードで聴いていたビートルズの音楽などがラジオからも流れ始めた。
こうして民主化路線を支持する声が高まり、自由化を求める動きに拍車がかかった。

首都プラハの街ではミニスカートなど西欧風のファッションが見られるようになり、6月には知識人らが署名した「二千語宣言」が発表された。
その現象と急速な変革の運動は「プラハの春」と呼ばれたが、共産主義国の同盟を堅持しようとするソ連のブレジネフ政権は、8月20日から21日にかけてワルシャワ条約機構5ヵ国軍による侵攻に踏み切る。

20万人を超えるともいわれた軍隊がプラハの中心部を制圧し、放送局を砲撃してドプチェクらの指導者を連行した。
この軍事弾圧、いわゆるチェコ事件が勃発したことによって、「プラハの春」はたちまちのうちに踏みにじられた。
それによってわずか数ヶ月で、チェコはふたたび自由にものを言えない国に戻ってしまったのだ。

そのときに身の危険から姿を隠さねばならなかったスポーツ選手が、1964年の東京オリンピックで女子体操の個人で三つの金メダルに輝いて、“東京五輪の名花”とたたえられたベラ・チャスラフスカである。
ベラは準備不足ながらも国際的な世論の高まりもあって、その年の10月に開催されたメキシコ・オリンピックに出場することが出来た。

そして観客の熱狂的応援にも後押しされて、跳馬と段違い平行棒、床競技の3種目で優勝を飾った。
東京五輪に続いて最高栄誉にあたる個人総合でも、見事に連覇を果たして喝采を浴びた。

しかしオリンピックが終わって帰国したベラは反体制の危険人物と見なされて、それから20年にわたって政府の監視下に置かれ続けることになる。
「二千語宣言」への署名撤回を、かたくなに拒否し続けたためである。

そんな激動の1968年にTVドラマ『ルドルフ3世への歌』の挿入歌として作られて、大ヒットしたのがマルタ・クビシェヴァーの「マルタの祈り(Modlitba pro Martu)」だ。
この曲でスターになったマルタもまた、やはりソ連に制圧されたプラハにいながら表現の自由を求めて、抵抗の姿勢を明確にしていく。

マルタがビートルズの「ヘイ・ジュード」をチェコ語でカヴァーすることにしたのは、アルバム『ソング・アンド・バラード』の制作の準備を進めていたときだ。
アメリカでは「ヘイ・ジュード」がその年の9月28日から、9週間連続で全米チャート1位の大ヒットになっていた。

その美しくも力強いバラードを1曲目に入れて、マルタはチェコ国民に勇気と希望を与えたいと思ったという。



ジュード あなたには歌がある
みんながそれを歌うと あなたの目が輝く
そしてあなたが静かに 口ずさむだけで
すべての聴衆はあなたにひきつけられる

あなたはこっちへ 私は向こうへ歩き出す
でもジュード あなたと遠くはなれても
心は あなたのそばに行ける


自由のシンボルとして「ジュード」という主人公が歌われたチェコの「ヘイ・ジュード」は、1年後の1969年10月にレコード化されて大ヒットした。
だがマルタの歌が持つ影響力の大きさを知っていた、当局はマルタに出頭命令を下して「ヘイ・ジュード」の歌詞についての尋問を行い、「二千語宣言」への署名についても撤回を迫った。

それに屈しなかったことからマルタは1970年1月、あらゆる表現活動を禁止されて音楽界から永久追放された。
それまでに出したすべてのレコードは発売禁止、人々が所持することも聴くことも禁じられて没収になった。

しかし、マルタの「ヘイ・ジュード」は不滅のプロテスト・ソングとして、チェコの人々に歌い継がれていったのだ。
長きにわたった抑圧の歴史を経てきたチェコでは、民族の知恵として受け継がれた言葉による抵抗という伝統があったからだという。

今 私はなす事もなく あなたの歌を聴く自分を恥じている
神様 私を裁いてください
私は あなたのように歌う勇気がない

ジュード あなたは知っている
口がヒリヒリ 石をかむようつらさを
あなたの口から きれいに聞こえてくる歌は
不幸の裏にある「真実」を教えてくれる


ふたたび人前にマルタが登場したのは1989年、民主革命によって共産党政権が崩壊した後のことだ。
非暴力のもとで穏やかに達成されたことで、「ビロード革命」と称された運動の原動力となったのは、「ヘイ・ジュード」に象徴される文化的方法だったといわれる。

自由への希求を歌と音楽に託して、歌手生命が絶たれることをわかった上で、マルタは自ら選んだ生き方は賞賛された。
時を同じくしてベラ・チャスラフスカもまた、ビロード革命によって名誉を回復して体操界に復帰し、チェコ・オリンピック委員会会長などを務めてスポーツ発展に尽力していく。

スポーツと音楽でふたりの不屈の女性が存在したことの意味を、チェコの上院議員ペトル・ピッハルトがこう語っている。

「チャスラフスカの意味についていえば、頂上を極めた体操選手だったということ以上に、彼女の存在自体により大きな意味があったと私は思っています。正常化時代、チェコ国内には人生を犠牲にした無数の人々がいた。その人たちにとって彼女は大きな支えであった。当局は、抵抗者のなかでもシンボル的な人々を目の敵にしていじめ抜いた。けれども屈しなかったものがいた。チャスラフスカしかり、歌手のマルタ・クビシェヴァしかりです。・・・」






(注)本コラムは2018年4月6日に公開されました。



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