1979年。
イギリスでは“鉄の女”と呼ばれたサッチャーが就任し、ザ・クラッシュがロック史上最も重要なアルバム『London Calling』をリリースした。
また、元セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスがヘロイン過剰摂取が原因でNYのホテルで死去した年でもある。
我が国では「家庭内暴力」「校内暴力」という言葉が新聞の見出しに初めて出現し、少年少女の非行が社会問題となっていた。
武田鉄矢、千葉和臣、中牟田俊男からなるフォークトリオ・海援隊の「贈る言葉」は、そんな年の11月にリリースされた。
この楽曲は、武田が主演したTBS系学園ドラマ『3年B組金八先生』(1979年放送開始)の主題歌として作られ、100万枚を超える大ヒットを記録した。
荒川の土手を金八先生(武田)が長髪をなびかて、生徒たちや道行く人たちと挨拶を交わしながら歩くシーンは、アラフィフ越え世代ならば「見たことがない人はいない」と言っても過言ではないだろう。
長きに渡って卒業ソングとして愛されることとなったこの歌は、一体どんな背景から生まれたのだろう?
それは故郷・福岡の風景に重なる学生時代の失恋だったという。
作詞をした武田は当時、意を決して告白した彼女の言葉を今でも憶えているという。
「武田君は歳をとったら素敵な顔になるよって…上手にフッてくれるんですよ。」
1972年に、武田は福岡で出会ったメンバーを連れて海援隊でデビュー。
当初はまったく売れなかったという…。
武田は、この曲を作る5年前(1974年)に25歳で結婚をしている。
結婚をした年には、福岡にいる母・イクに向けた詫び状を歌にした「母に捧げるバラード」のヒットで第25回NHK紅白歌合戦に出場を果たすも、翌年の大晦日には二十歳そこそこで妊娠をした妻と夫婦揃って居酒屋の皿洗いのバイトをしなければならないほど人気が低迷したという。
まだ若く、生活も不安定な新婚夫婦ならば、きっと小さな喧嘩も日常的だったのだろう。
それは武田が夫婦喧嘩の時に使った台詞だという。
武田の妻は、こんなことをこぼした。
「この人は何でも歌に使うんだから…」
当時のことを思い出しながら武田はこんなエピソードも語っている。
「みそかの鐘(大晦日)を聞いて、バイト料4千円もらって、お店があった原宿から恵比寿まで歩いて帰ったの。
女房のお腹を冷さないように…。
もう貧乏だったから、二人寄り添うしかないのよ。
今でもホントに忘れもしないんだけど…。
青山学院を抜けたところにコカコーラボトラーズの本社がある坂道で、女房が真っ暗い闇に向かって突然こう言い出したのよ。
『よぉ〜く見とこう』ってね。
何を?と聞いたら『ここ、どん底だから』ってね。」
夫婦で経験した貧しく辛い時期、学生時代に経験したホロ苦い失恋の思い出…
「贈る言葉」のヒットを振り返りって、武田はこう続ける。
「失恋の歌を書いたつもりなのに、何で卒業式で歌われるようになっちゃったんだろうな(笑)」
まさかこの曲が小中学生の卒業ソングとして歌われるなど、作ったときには思ってもみなかったという。
当時、裏番組に『太陽にほえろ!』やプロレス中継など人気番組があり、TBSも苦戦を強いられていたが、気づけば平均24.4%の好視聴率をマークしていた。
主題歌も最初はイントロに「キンコンカン♪」と学校のチャイムが鳴るような別のポップスが候補にあがっていたという。
当時の番組ディレクターは、こんな風に述懐している。
「編成会議でも(この楽曲が)少し地味じゃないか、という声もあり、まさかこんなに大ヒットするとは誰も思ってなかった。」
海援隊としてデビューする前の武田は、地元福岡にある福岡教育大学に7年間在籍して中退している。
そんな息子の将来を案じて、母・イクは「芸能界で失敗しても大学に戻れるように」と、武田には内緒で休学手続きをして学費を払い続けていた。
上京後も、故郷を離れて“どん底”を経験しているという息子夫婦を心配していた彼女は、このドラマのヒットを心から喜んだという。
「鉄矢は先生にはならんかったけど、ドラマの中では立派な先生になったよ。」
武田が書いたこの「贈る言葉」は、彼を信じてついてきてくれた妻、海援隊のメンバー、そして母に対しての“恩返し”という贈り物となった。
<引用元・参考文献『東京歌物語』/東京新聞編集局・編著(東京新聞出版部)>
【佐々木モトアキ プロフィール】
https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12648985123.html
【TAP the POP佐々木モトアキ執筆記事】
http://www.tapthepop.net/author/sasaki