2013年12月5日に亡くなったネルソン・マンデラ元大統領のニュースを見て、人種差別をなくす道程がどんなに遠く困難なものだったのか、初めて知った人もいるかもしれない。
アメリカの公民権運動にとって記念すべき年である1963年は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師によって黒人差別に終止符が打たれたともされる年だ。
だがその一方、南アフリカでアパルトヘイトと闘っていたネルソン・マンデラは、その年に終身刑の宣告を受け、その後27年もの間、獄中生活を送らなければならなかった。
そして5年後の1968年、キング牧師はメンフィスで暗殺されてしまうのだ。
それはひとりの女性の抵抗から始まった
1955年12月1日、アラバマ州モントゴメリー。デパート勤務からの帰り道、彼女はバスの「白人席」に腰かけていた。白人が乗ってきたことは分かっていたが、彼女は立たなかった。抗議のつもりはなかった。ただ疲れきっていたのだ。
バスの運転手からとがめられても、従おうとしなかった彼女はその場で逮捕される。今から58年前。アメリカ南部ではこんな理不尽な法律がいまだにまかり通っていた。当時それがアメリカでは「常識」とされていたのだ。
最後まで貫かれた非暴力
黒人たちの間に広がった波紋は、やがてバス・ボイコット運動にまで高まってゆく。からっぽのバスを横目に、黒人たちは長い道のりをひたすら歩き続けた。
そのボイコット運動のリーダーに選ばれ、先頭に立ったのが、26歳で教会の牧師に就任したばかりのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアだ。
次第に数を増す黒人たちの姿に白人たちは怯え、過激化した彼らによって、キングの自宅には爆弾が投げ込まれた。だが、キングは挑発にのることなく、最後まで非暴力を貫き、運動をあくまで平和的に導いてゆく。
地に落ちた「アメリカ民主主義」
流れを大きく変える出来事、それは思いがけないところからやってきた。1963年5月2日、バーミングハム市内での「奴隷解放宣言公布100周年」を取材していたテレビ画像には、信じられない光景が記録されていた。
デモ隊に警察犬をけしかけ、参加者を次々に逮捕する警官隊。さらに動員された消防隊員たちに高圧ホースで放水され、なぎ倒される人々。
デモに参加していた子どもまで宙に吹き飛ばされるショッキングな光景が、ネットワークを通じて、アメリカ全土さらには世界に伝えられると、波紋は国際社会にまで広がった。
これが外に向かって民主主義を説く国の姿なのか。一刻の猶予もならないと、ついにケネディ大統領も乗り出し、事態はたちまち一転する。
「私には夢がある」
1963年8月28日。
おりしも首都ワシントンの記念堂には、20万人といわれる人々が集まり、「奴隷解放宣言公布100周年」の集いが始まろうとしていた。
人々を前に、マーティン・ルーサー・キング牧師が語りかけた自作の詩は、多くの人々によって世に語りつがれている。
私には夢がある(I HAVE A DREAM)。
それは、いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷所有者の息子が、兄弟として同じテーブルに腰を下ろすことだ。
私には夢がある。
それは、いつの日か、私の四人の小さな子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に生きられるようになることだ。
(「キング牧師」辻内鏡人・中條献著、岩波ジュニア新書)
牧師暗殺から生まれた曲、「Pride」
1968年4月4日、テネシー州メンフィスでキング牧師が暗殺されたというニュースを、のちにU2を結成することになるメンバーたちは、当時アイルランドのダブリンで聞いている(実際に撃たれたのは夜だったが、歌詞が「4月4日早朝」となっているのは時差のズレである)。
危険は囁かれていたとはいえ、ボノの驚きと怒りは激しく、渾身の勢いで書き上げたのが、「Pride」だったと言われている。
「僕がキング牧師やガンディ、キリストたちの平和主義者に惹かれる理由の一つは、僕自身がもともと平和主義者(Pacifist)ではないからだ」
キング牧師についてボノはそう語ったと言われる。
この言葉の中には、祖国アイルランドの人々が歴史の中である時は武器を取って闘ったように、場合によっては自分も立ち上がることも辞さないという強い意志が込められているようにも感じられるのだ。
(このコラムは2013年12月29日に公開されたものです)
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