アメリカ南部のテネシー州メンフィスから登場し、瞬く間に全米の頂点へと昇りつめた男、エルヴィス・プレスリーがアメリカ陸軍に徴兵されたのは、1958年3月のことだった。
エルヴィスの歌に出会ったことによって、音楽そのものに目覚めたというジョン・レノンがこう述べていた。
彼は軍隊に入った日に死んだ。
エルヴィスは特例措置を受けることなく、普通の一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で勤務した後、1960年3月5日に除隊してメンフィスに帰郷し、一般市民に戻った。
そしてただちに音楽活動を再開し、20日と21日に6曲をレコーディングした。その中からまずシングル「本命はお前だ」を出すと、約1ヶ月後の4月25日に全米シングル・チャート1位を獲得する。
8月から9月にかけては「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」、11月から翌年1月までは「今夜はひとりかい?」、3月には「サレンダー」が続けて1位になり、エルヴィスを待っていたファンは音楽シーンへの復帰を祝福してくれた。
ところが、エルヴィスはここから徐々に方向性を変更し、映画の都であるハリウッドを拠点にした俳優業へと専念することになっていく。
これは、エルヴィスの人気を維持しながら、高いギャラをキープしていこうと考えたマネージャーの“パーカー大佐”こと、トム・パーカーの方針で、不良のイメージが付きまとうロックンロールの世界から、映画でしか見ることが出来ない憧れのスターに仕立てあげようとしたのだ。
当初は、パーカーの狙い通りに映画の興行成績も好調で、期待をはるかに上回る利益を生み出したことで、ハリウッドの映画界からも歓迎された。
それにともなってレパートリーもまた、大人向けのポピュラー・ソングやバラード中心になった。それでもしばらくは主題歌や挿入歌のレコードがヒットし、サウンドトラックのアルバムも好調な数字を記録した。
しかし、そのために1961年を最後にコンサート活動が封印されたことで、エルヴィスは観客を前にして歌うことがなくなってしまう。
世界の音楽シーンは1963年から64年にかけて、イギリス発のバンドたちの活躍で大きな変化を遂げていった。アメリカのロックンロールやブルース、R&Bを自分たちなりに血肉化することで、ビートルズやローリング・ストーンズなど、数多くのバンドがそれまでにない新鮮な音楽を生み出したのである。
アメリカのティーンエイジャーにもそれが熱狂的に受け入れられて、世界中の若者たちがバンドに関心を向けるようになっていく。一方で、エルヴィスの俳優業は出だしこそ好調だったものの、その後は次第に内容のマンネリ化が進んで下降線をたどり始める。
かつて全米チャートを賑わせていたレコードも、1962年の「グッド・ラック・チャーム」を最後にナンバーワン・ヒットが出なくなった。やがて発売したシングルのおよそ半分が50位にも入らないという結果が続くようになり、1960年代後半の音楽シーンでは「過去の大スター」という扱いになってしまう。
そんなエルヴィスが奇跡的に復活を遂げたのは、1968年12月3日。テレビで『’68カムバック・スペシャル』が放映されたことによるものだ。
さすがに仕事の方向性に行き詰まりを感じていたパーカー大佐は、3大ネットワークのNBC(ナショナル・ブロードキャスティング・カンパニー)と交渉し、クリスマスシーズンにオンエアするテレビの特別番組を企画した。
1960年のフランク・シナトラ・ショーへのゲスト出演を最後に途絶えていた、歌うエルヴィスの姿をファンに見せることで、行き詰まりを打開したいと考えたからだ。
この時に番組の企画と制作を引き受けた二人のプロデューサーが、何としてもロックンロールのヒーローを生き返らさせようと、直にエルヴィスを説得して理解を得たことで番組の内容は重厚になり、歴史に残る素晴らしい内容になっていった。
ジェームズ・ブラウンやローリング・ストーンズなどのライブ番組を手がけた経験を持つスティーヴ・ビンダーと、アソシエイションの「チェリッシュ」やフィフス・ディメンションの「輝く星座(アクエリアス)」といったナンバーワン・ヒットを連発していた音楽プロデューサー、エンジニアのボーンズ・ハウは、ともにエルヴィスと彼の歌を心から敬愛していた。
彼らはこの特別番組で復活しなければ、もうエルヴィスには未来がないと腹をくくり、全曲クリスマス・ソングという大佐の意向は、当処からまったく無視してプロデュースに取り組んだ。
背水の陣で史上最高のライブ番組を作ることを目指したビンダーは、大佐の企画には面従腹背で対応し、それを撤回させるべく粘り強い説得を続けたのである。
「この特別番組がまたあのMGMのくだらない映画の繰り返しになったら、それでエルヴィスは永久に一巻の終わりとなり、1950年代に登場してきた一つの現象としてしか記憶されず、腰を振って歌い、凄腕のマネージャーのついていた歌手としてのみ記憶にとどまる人となってしまうだろう、と私は考えた。逆に、今でも自分が本当のナンバー・ワンであることをこの特別番組で出してみせることができれば、エルヴィスは完全に蘇生していくだろう、と私は思った」(スティーヴ・ビンダー)
スタジオ・ライブで復活するという企画に対し、エルヴィスはきわめて積極的で、パーカー大佐からの指示を時には無視してまで、番組作りに協力してくれた。こうしてビンダーとエルヴィスは、具体的な選曲などを進めることによって、お互いの合意を形成しながらライブの内容をしっかりと固めていった。
エンジニアとしての修行時代に、エルヴィスがレコーディングしている現場に立ち会っていたハウは、絶頂期の仕事ぶりの凄さを体験してきた。そのときにエルヴィスが示した音楽的なひらめきやアレンジへの的確な意見、さらにはテイクを選ぶ判断の的確さなど、表現者としての卓越した能力をわかっていたのだ。
「くだらない映画をつくり始める以前、自分のレコーディング作業にエルヴィスが有機的に絡んでいたときのようにできれば、大佐を通したエルヴィスではなく、本当のエルヴィス・プレスリーをみんなに見てもらうことができる、と私たちは考えた」(ボーンズ・ハウ)
撮影が行われたのは6月末で、カリフォルニア州バーバンクにあるスタジオに観客を入れて2日間で2回ずつ、4回とも内容が異なるセットリストで、長時間のライブが収録された。
エルヴィスが7年ぶりに観客を前にして最初に歌ったのは、デビュー曲の「That’s All Right」だった。
そこからはブランクを感じさせないどころか、7年間の抑圧で蓄積させたエネルギーを、一気に爆発させるようなパフォーマンスとなった。
その模様が12月3日に放送されると、平均視聴率42%・瞬間最高視聴率70%を超える驚異的な数字を叩き出した人々はロックンロールの偉大なスターを忘れていたのではなく、音楽に戻って来るのをずっと待ちわびていたのだ。
こうしてエルヴィスは、長かった暗黒時代を抜け出して復活を果たしたことで、翌1969年からはコンサート活動を再開して新たな音楽人生のスタートを切ることになる。
(注)このコラムは2014年9月23日に公開されたものを改題、および大幅に加筆したものです。なおスティーヴ・ビンダーならびにボーンズ・ハウの発言は、ジェリー・ホプキンズ著 片岡 義男訳「ELVIS エルビス」(角川書店)からの引用です。
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