アレサ・フランクリンが西海岸のサンフランシスコにあるフィルモア・ウェストで、熱狂的なライブを成功させてから約1週間後。
大陸を挟んで反対側に位置するニューヨークのフィルモア・イーストでは、オールマン・ブラザーズ・バンドによるライブ・レコーディングが行われた。
兄のデュアン・オールマンと弟のグレッグ・オールマンを中心にして1969年に結成されたオールマン・ブラザーズ・バンドは、2枚のアルバムを出してある程度の注目を集めてはいたものの、バンド内ではドラッグや金銭面でのトラブルが日常と化していた。
そんな悪い流れが変わったのは、デュアンがエリック・クラプトンの誘いを受けて、デレク・アンド・ドミノスのレコーディングにサポートで参加した1970年の秋頃からだった。
デュアンのスライド・ギターは、神様と呼ばれていたクラプトンにすら「とても真似できない」と語ったほどで、クラプトンはデレク・アンド・ドミノスの正式なメンバーになってくれることを希望したが、デュアンはそれを断ってバンドに戻った。
デュアンの戻ったオールマン・ブラザーズ・バンドは、地道なライブ活動を続けることで人気を集めていき、間もなくしてライブ・アルバムの制作が計画される。
スタジオでのアルバム制作に限界を感じていたデュアンは、ステージでの自由なプレイをレコーディングして、バンドの本領を発揮させようと考えたのだ。
「分かるだろ、スタジオでレコードを作るのはフラストレーションがたまるんだ。それで、俺たちの次のアルバムはライブ・レコーディングにしようって思ったんだ」
彼らがフィルモア・イーストに初めて出たのは1969年12月、そのときはブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの前座だった。
まだ南部のローカルバンドに過ぎない時期だったが、プロモーターのビル・グレアムに演奏を気に入られたことで、それからは幾度もフィルモアに出演してきた。
ライブ・レコーディングは1971年3月11日から13日まで、3日間にわたって行われたが、グレッグはその時のことをこう振り返っている。
「観客も俺たちの演奏の大事なパートのひとつなんだってことに気づいたんだよ。それはスタジオで再現できるようなものじゃないんだ」
2枚組でリリースされた『アット・フィルモア・イースト』には、ツイン・リードによる神業的な即興演奏、ツイン・ドラムから繰り出される強力なグルーヴ感、そして熱狂する観客とともに盛り上がっていく会場の空気感が記録(レコード)された。
2枚組でわずかに7曲しか収録されていなかった『アット・フィルモア・イースト』だが、ビルボードのアルバム・チャートでは13位にまで上昇して、10月にはゴールドディスクを獲得する。
土臭い南部のブルースとロックが結びついた、オールマン・ブラザーズ流のサザン・ロックは見事にレコードで再現され、熱のこもったインプロビゼーションの魅力を伝えて、ロック史に残るライブ・アルバムの金字塔として語り継がれることになった。
こうして軌道に乗ったオールマン・ブラザーズ・バンドだったが、その月の終わりに大きな悲劇に見舞われる。
バンドを牽引してきたデュアン・オールマンが10月29日、愛用のバイクに乗っていて事故にあい、この世を去ってしまったのだ。
しかしデュアン亡き後も、残ったメンバーはレコーディング中だった2枚組のアルバム、『イート・ア・ピーチ』を完成させて前作を凌ぐ好セールスを記録した。
さらには1973年に『ブラザーズ・アンド・シスターズ』を発表、ついにアルバム・チャートの1位に輝いたのである。
映像はライブ・レコーディングの半年前、フィルモア・イーストに出演したときのもの
(このコラムは2014年10月7日に公開されたものに加筆修正を施したです)
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