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デュアン・オールマンはなぜウィルソン・ピケットを説得して「ヘイ・ジュード」をカヴァーさせたのか?

2024.10.28

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ビートルズの18枚目のシングル「ヘイ・ジュード」は1968年8月末に発売されると、9月28日には全米チャート1位になって9週間連続で首位の座をキープするという大ヒットを記録した。

この曲がヒットし始めた頃、アメリカ深南部のアラバマ州にある人口8,000人の田舎町、マッスルショールズにあるフェイム・スタジオで、サザン・ソウルの大物となっていたウィルソン・ピケットのレコーディングが行われていた。(注)

エッジの効いたパワフルなヴォーカルと激しいシャウト唱法で成功をつかんだピケットは、1965年から3年連続でにR&Bチャート1位曲を放つなど、当時は最も脂が乗っている時期にあった。

そのときピケットのレコーディングに初めて参加したのが、翌年にオールマン・ブラザース・バンドを結成する22歳のギタリスト、デュアン・オールマンである。

デュアンはスタジオでのセッションの合間に、ピケットに意外な提案を行なったらしい。発売されたばかりのビートルズの「ヘイ・ジュード」を、カヴァーしてみてはどうかと熱心に薦めたのだ。

デュアンをセッションに呼んだプロデューサーで、フェイム・スタジオのオーナーであるリック・ホールは、そのアイデアには賛同しかねたという。

自分でもソングライティングを行うピケットは日頃からオリジナル曲を重視していたので、白人のビートルズが作った曲をあえてカヴァーすることはないと、その案は即座に却下された。

それでもデュアンはピケットに「ヘイ・ジュード」を取り上げてほしいと、熱心に説得を続けていった。きっとうまくいくという、確信めいたものがあったに違いない。

幼い頃から聖歌隊で歌ってきたピケットは10代の半ばからゴスペルグループで活動した後に、コーラス・グループのファルコンズへ参加してプロになった。そして、1959年に「I Found A Love」という曲を書いてヒットさせたことから、ブラック・ミュージックの名門レーベルだったアトランティックに認められて、ソロ・シンガーとしてデビューしてキャリアを築いてきた。

デュアンは気むずかしくて扱いにくいと評判だったピケットを相手に、自らギターを弾いて説得して、「ヘイ・ジュード」を試すところまで持っていった。

ビートルズのヴァージョンはイントロなしで、ポール・マッカートニーがいきなり「Hey Jude~」と歌い始める。最初はピアノだけがコードを鳴らす伴奏のシンプルな始まりだが、徐々にリズムやコーラスが加わって盛り上がっていき、後半からオーケストラが入ってポールのヴォーカルはソウルフルなシャウトを繰り返す。

音域が広くて歌唱力を要求される美しいメロディー、歌詞の内容も含めて否が応にも盛り上がっていく「ヘイ・ジュード」という楽曲の構造には、ゴスペルに通じるものがあった。そのことを理解したピケットの意見で、試しにセッションが行われることになった。

教会を思わせるオルガンの響きとシンプルなリズム隊をバックに、ピケットが感情を抑え気味に歌い出すと、一瞬にしてゴスペルのような荘厳なムードが醸しだされる。

デュアンの抑制が効いたギターが要所々々、歌に絡んだり促したりすることによって、ピケットのソウルフルなヴォーカルはホーン・セクションとも一体となって、何かに導かれるように熱を帯びて激しくシャウトする。

それをきっかけに後半の盛り上がりへと一気に突き進んでいくと、ヴォーカルに呼応したデュアンのギターによる叫びと相まってクライマックスを迎える。


ギタリストのジミー・ジョンソンは、そのセッションが終わった瞬間のことを、ドキュメンタリー映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』のなかでこう語っている。

こうしてサザンロックが誕生したんだ。


アフリカ系アメリカ人の中から生まれてきたサザン・ソウルと、アイリッシュ系イギリス人が作った「ヘイ・ジュード」が、ゴスペルを介して出会うことによって誕生したサザンロックは、デュアンが率いるオールマン・ブラザーズ・バンドやレイナード・スキナードなどによって、ロックシーンに大きな流れを生み出すことになる。


〈本コラムは2014年11月7日に公開されたものを、2018年9月に加筆訂正しました〉

(注)サザン・ソウルのヒット曲製造工場となっていたフェイム・スタジオは、R&Bやソウル系のアーティストのレコーディング・スタジオとして60年代の前半から注目を集めていた。アレサ・フランクリンやエタ・ジェイムズ、クラレンス・カーターなど、サザン・ソウルのシンガーたちのヒット曲を次々に送り出したのは60年代の半ばからである。意外にもオーナーでプロデューサーとして陣頭指揮をとるリック・ホールも、主だったミュージシャンたちもみんな白人だった。


デュアン・オールマン「アンソロジー」


「アンソロジー 2」


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