ビートルズ解散後、ソロ作品の発表や映画プロデュースなど充実した活動を見せていたジョージ・ハリスンだが、自身のライブに関しては1974年の北米ツアーを最後に遠ざかっていた。
同ツアーはジョージの声が本調子ではなかったこと、ビートルズ・ナンバーが大胆にアレンジされていて一部歌詞も変わっていることなどからメディアや評論家によって酷評され、ジョージの心を深く傷つける。
しかし、それ以上にジョージをライブから遠ざけたのは、ステージにいるジョージにドラッグを突きつけてくるような一部の狂信的なファンの存在だった。
すっかりライブへの興味を失ってしまったジョージが再びツアーに出ることになったのは1991年の12月。それはエリック・クラプトンとのジョイント・ツアーだった。
2人は公私ともに付き合いが深く、1991年3月にクラプトンが不慮の事故で息子をなくした時には、ジョージとその妻、オリヴィアの2人でクラプトンを励まし続けた。
そんな時、クラプトンがジョージにライブへの興味を取り戻してほしいというオリヴィアの気持ちを知ったことから、2人によるツアーが計画される。
「彼とオリヴィアはこの数ヶ月とても親切にしてくれたので、感謝の気持を伝えたかった」(「エリック・クラプトン自伝」より)
17年ぶりのツアー場所として選ばれたのはイギリスやアメリカではなく、ビートルズの人気が高くて暴動が起きる可能性が低く、紳士的に演奏を聴いてくれる日本だった。
ツアーは12月1日の横浜を皮切りに大阪、名古屋、福岡、広島、東京と全国6都市を回り、ジョージはソロの曲だけではなくビートルズの楽曲も数多く取り上げた。
クラプトンらの狙い通りジョージは神経質になることなく、リラックスして時にユーモアも交えながら日々のライブを楽しむ。
結果としてはこれが生前最後のツアーとなってしまったが、翌年4月にはイギリスのロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートも実現しており、ジョージのライブへの意識を変えたいというクラプトンとオリヴィアの願いは無事に叶えられたのだった。