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レナード・コーエン少年時代〜厳格だった父親の死、フラメンコギターへの憧れ、スペインの詩人ロルカとの出会い

2019.12.29

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1934年9月21日金曜日、レナード・コーエンは、カナダのケベック州モントリオールのユダヤ系家庭に生まれる。病気がちだった父親はモントリオールで大きな被服製造業の会社を経営していて、敬虔なユダヤ教信者だった。

「私は父がスーツ以外の服を着ている姿を見たことはほとんどなかった。夕食の時は幼い私にもスーツか少なくともジャケットを着るように躾けられた。父は家族の靴とスリッパが各自のベッドの下にキチンと並べられていないと激昂した。厳格だった父の形式主義が家庭を支配していました」



くじけちゃいけない 私の本と銃をとれ
いいか、息子よ、奴らの嘘を忘れるんじゃない
そして夜がくる…とても静かな夜だ
父は間違っていたと言いたいが
子供に嘘などつくはずがない


お堅い父親とは違って、母親はロシア系のルーツを持つ美しい女性で、音楽好きのロマンチストだった。コーエンが育った街は、モントリオール市内のモン・ロワイヤル公園の斜面に位置する上位中流階級の人々が住むウエストマウントと呼ばれる場所だった。

生家は、煉瓦造りの二階建て二戸続きの家で、部屋の窓からはユダヤ教会やセント・ローレンス川やモントリオールのダウンタウンが一望できた。その家の書斎には、後に詩人になるための基礎となった書籍や詩集が並んでいた。

「A・Mクラインの詩集、オーデンの短詩集、ホイットマンの詩集、スコットの“湖上の美人”、それに“ナポレオン伝”など様々な本があったのを憶えている」


1944年1月、9歳の時に父親が病死。父親は自分が死んだあとも家族が生活でき、子供たちが進学できる財産を残していた。まだ幼かったコーエンは、父親の死の痛みをストイックに処理したという。

「その時、私は深い喪失感など感じなかった。おそらく私の幼年期を通してずっと父は病気だったからだろう」


20代の時にギリシアのイドラ島で書いた未発表の詩の中で、父親についてこんなことを書き綴っていた。

父に似ている人は世界中に誰もいない
私を除いては
私だけが父の顔をつけている
今ここに私はいる
父が一度も旅することもなかったであろう場所に
私は私自身だと見てくれる人たちの中にいる


父親が亡くなった時、近所の小学校(ロズリンスクール)に通っていた。学業はよくできたが、目立つ生徒ではなかった。その学校は芸術やスポーツを含む課外活動を推奨しており、その両方を楽しんだという。コーエンは小学生にして、ヘブライ語とユダヤ教に関する基本的な知識を身につけていた。

1945年、11歳になり、初めてナチスドイツの強制収容所の写真を見て、大きな衝撃を受けたという。

「それはユダヤ人としての自分に対する教育の真の始まりであり、初めてユダヤ人が“受難の民”であることを実感した瞬間だった」



13歳になると、同年代の友達が皆そうであったように、夜な夜な家を抜け出すようになり、ストリートのナイトライフに魅せられていく。幼い頃、窓辺から眺めていたダウンタウンまで足をのばし、徘徊しては麻薬中毒者や売春婦、カフェや酒場に集まる大人達、都市の喧騒を観察していた。

「カフェテリアでサンドウィッチを買い、ジュークボックスに耳を傾けることが最高の楽しみだった。それと女の子たちに会うこともね」


1949年、15歳になってギターを手に入れる。母親からの勧めもあって、それまでピアノやクラリネットやウクレレには少し触れたことはあったが、ギターが弾けた方が女の子たちにモテるだろうという動機だった。

「グレイグストリートの質屋で中古のスチール弦ギターを12ドルで買った」


当時のカナダにはまだギター文化が浸透しておらず、一般に共産主義者だけがその楽器を演奏すると思われていた。ある日、公園で若い女性たちを前に演奏する19歳のスペイン人移民と出会い、ナイロン弦とフラメンコを知った。

「ハンサムで情熱的な彼にはどこか陰があって、孤独だった。私は彼の演奏に惹かれてレッスンをお願いした」


3回のレッスンで、彼はいくつかのコードとフラメンコを覚えた。4回目のレッスンの日、約束の場所に姿を見せなかった19歳の師匠の下宿先を訪ねた。

「数日前に彼が自殺したと聞かされた。彼はギターのこと以外に一度も自分のことを話さなかったから、事情も理由もわからないままだった。だけどレッスンをしてもらったことにとても感謝している」



そのスペイン人の青年から習ったコードと演奏法は、後の彼の作曲の基礎となったという。ギターを弾き始めたその年、もう一つ大きな出会いが待っていた。

「それはフェデリコ・ガルシア・ロルカの詩との出会いでした。ロルカは憂鬱な世界と力強い言葉で私の生活を破壊し、私を詩の世界の喧騒の中に誘った。スペイン出身の彼は、フラメンコ音楽を通じて悲しみの気高さを理解すること、そしてジプシーの男女が踊っている姿に深く感動することを教えてくれた。スペインは15歳だった私の心に住みついた。ロルカにも感謝している」



ロルカに出会った翌年から真剣に詩を書き始めた。そして1951年、マギル大学に入学し、詩人としてのキャリアをスタートさせると共に、ギターを弾きながら詩の朗読を始める。

1956年、22歳の時、卒業を目前に初の詩集『Let Us Compare Mythologies(神話を生きる)』を出版する。地元モントリオールを中心とする狭い範囲での活躍に物足りなさを感じていたコーエンは、シンガー・ソングライターとしてのプロデビューを目指し、ビート文化の中心地ニューヨークへと旅立った…

<引用元・参考文献『レナード・コーエン伝』イラ・ブルース ナデル(著)大橋悦子(翻訳)/夏目書房>


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