自由を追い求め…恋多き人生を歩んできた男、レナード・コーエン。
彼が“詩人”としてのキャリアをスタートさせたのは大学時代だった。
カナダの名門公立大学に通いながら詩を書き始めた彼は、同時に恋にも目覚める。
そして恋をするたびに新しい詩が生まれた。
彼の“自由”を求め続ける恋多き人生は、この時期から本格的に始まった。
当時、彼は恋愛についてこう語っている。
「愛は本質的なものだが、それぞれ個々の相手によって定義し直せるものである。その人の生涯のさまざまな場面にふさわしい、さまざまな恋人が必要である」
一般的な恋愛観と比べると、いささか自由過ぎる発想だ。
在学中、意外なことに彼の成績は英文学が最悪で、逆に数学が得意だった。
さらにディベートに関しての彼の能力は学内でも最高レベルだったという。
この頃から彼はギターを弾きながら詩の朗読を始める。
1956年、卒業を目前にした22歳の彼は、初の詩集『Let Us Compare Mythologies』を出版。
しかし、地元モントリオールを中心とする狭い範囲での活躍に物足りなさを感じていた。
そして彼は、シンガー・ソングライターとしてのプロデビューを目指し、ビート文化の中心地ニューヨークへと旅立った。
コロンビア大学に入学した彼は、ビート族たちが集まるカフェに入り浸るようになったものの、最後までそこに馴染むことはなかったという。彼のような名門出のお坊ちゃんを、筋金入りのビート族たちは受け入れてくれなかったのだ。
結局モントリオールに戻った彼は、ニューヨークで仕入れた“ジャズ・バンドをバックに詩の朗読をする”という新しいスタイルに挑戦した。
しかし、詩人としても朗読者としても、それ以上の活躍や収入は望めず、一時は父親の会社で工員として働く日々を過ごした。
そして25歳になった彼はある日、再び旅に出る決意を固め、当時ガールフレンドだったマリアンヌを連れて、そのまま数年間ギリシャのイドラ島という小さな島に住み着くようになる。
1961年、レナード・コーエン27歳。
この年に出版した詩集『The Spice-Box of Earth』で、特に母国カナダにおいて、ようやく“詩人”として知られるようになる。
そしてこの頃この島で、後の代表曲となる「Bird On The Wire」を作った。
彼は比喩と隠喩が生い茂る森の中から、その独自の恋愛観と共に、組織や社会に縛られることなく「自由になりたい」と願う、執拗なまでの“魂の叫び”を赤裸々に表現した。
電線の上の一羽の鳥のように
真夜中の聖歌隊の酔っぱらいのように
俺は自分なりのやり方で自由になろうとした
どこまでも自由を求め続ける“希代の詩人”の才能は、27歳の時から輝き始めた。
その後、彼は32歳で歌手として遅咲きのデビューを果たす。
2012年、彼の新作アルバム『Old Ideas』が世界16ヵ国で1位を獲得した。
77歳にして、多くの若手強豪を押しのけてのこの順位は驚異的と言える。
近年行ったワールド・ツアー(84公演)のチケットは各地でソールド・アウトし、約70万人の観客を動員した。
また、スペインでの最高賞であるアストゥリアス皇太子賞文学部門を受賞。
あらためてレナード・コーエンの存在を世界中に知らしめた。
<解説>
イドラ島
当時は水道設備すら整っていない不便な島だったが、いつしか作家や画家、詩人たちが住み始め、後にはアレン・ギンズバーグやブリジッド・バルドー、ケネディー一族までもが訪れる有名人達の隠れ家的存在となった。いち早く島の魅力に惹かれた彼は、古い家を買って創作の拠点とした。
Bird On The Wire
ある日、窓の外を眺めていて目についた、電線に一羽の鳥が留っている光景から思いついたというこの歌は、片思いに苦しむ孤独な男の心情が綴られている。
彼の作品は、読む者や聴く者の心に、彼の持つ“性的特質”と“信仰”を包み隠すことなく投げかけてくる。
浮浪者が俺に言った。「そんなに多く求めてはいけない」
そして美しい女が俺に叫んだ。「さあ、もっと多く求めたらどうなの?」