「毎夜、リックの部屋から聴こえてくる調子外れな音に頭が変になりそうだったわ!」
エリック・クラプトンの祖母(育ての親)は当時のことを回想しながらこんな風に語っている。
彼は自室に何時間も籠って、ギターのテクニックに関する法則や秘訣を必死に解き明かそうとしていた。
ポータブルのテープレコーダーに録音した自分の演奏を聴きながら、まるでエルヴィス・プレスリーやチャック・ベリーにでもなったかのように喜んでいたという。
しかし、それだけでは彼の研究心は満たされなかった。
イギリスの田舎町で育った青年は、いつしかロックンロールを通じて“その起源”に辿り着こうとしていたのだ。
彼が“より純粋なサウンド”として惹かれたもの…それはブルースだった。
とりわけ初期のエリック・クラプトンに影響を与えたのが、ビッグ・ビル・ブルーンジーだった。
1890年代にミシシッピ州で生まれ、貧困と人種差別から逃れるために1924年からシカゴに移り住んだ男である。
食うや食わずの生活は、清掃人や、時には牧師として働きながら何とかしのいでいたが、やがてブルースマンとして頭角を表すようになり、1930〜40年代のシカゴを振るわせる存在となる。
小さなドラムセットにウッドベースというバンドをバックに、ブルーンジーはアコースティックギターを弾いていた。
このスタイルこそが、1940年後期から1950年代にかけて登場するTボーン・ウォーカー、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフといったエレクトリック系を代表するブルースマン達に多大な影響を与えたのだ。
ブルーンジーは、流行にとらわれることなく独自の演奏スタイルを貫きながら、黒人ブルースだけにこだわらず、ピート・シーガーなどの白人フォークシンガー達ともステージを共にした。
その音楽活動は1958年に咽頭ガンで亡くなるまで継続され、アメリカのブルースをヨーロッパに広めることに大きく貢献したと言われている。
そして、クラプトンにとって“人生を変えた人物”がもう一人いる。
彼は他のどの歌手やギタリストよりも、その男のプレイ(技術)を研究したという。
ロバート・ジョンソン──1911年にミシシッピ州ヘーゼルハーストで生まれたブルースマンである。
ジョンソンのギタープレイは、主に低音弦を使ったうねるようなリズムが要となっていたが“スライドギターの魔術師”と呼ばれたタンパ・レッドのボトルネック奏法も研究していたし、歌においては“歌うブレーキマン”の異名で知られる白人カントリーシンガーのジミー・ロジャースが広めたブルーヨーデルという歌い方を取り入れていたりする。
また、ジョンソンのギターにはジャズのフレージングも見受けられた。
「罠に捕らえられて羽をバタつかせる鳥のように動く鋭い指だ!」と、評したファンもいたという。
しばし聴衆に背中を向けて演奏した彼を、ある人は「ぶっきらぼうな気質だ!」と言い、またある人は「誰にもテクニックを明かしたくなかったからだ」と解釈した。
そんなロバート・ジョンソンのトリビュート盤に、クラプトンはこんな文章を寄せている。
「彼の音楽を聴くまで自分が聴いてきたもののすべてが、まるでどこかの店のウィンドウのために着飾っていたもののように思えたんだ。」
「初めて耳にしたジョンソンのサウンドは、彼自身のためだけに歌っているようだった。あるいは時としてそれは、神に向けられていたのかもしれない。」
十字路へ行ってひざまずいた
十字路へ行ってひざまずいた
天の神様、どうかこの可哀想なボブをお助けください
走れ、走れ、俺の親友のウィリー・ブラウンに伝えてくれ
走れ、走れ、俺の親友のウィリー・ブラウンに伝えてくれ
神様、十字路に立ち尽くす俺はこのまま沈んでいってしまいそうだ
ウィリー・ブラウンとは早い時期からデルタブルースの始祖たるチャーリー・パットンと交流を持ち、直々にギターを習ったブルースマンの名前である。
チャーリー・パットン、ウィリー・ブラウン、サン・ハウス、ロバート・ジョンソンの4名が初期デルタブルースの大きな流れを形づくったとされている。
言うまでもなく、ウィリーとジョンソンにはそれなりの接点があった。
右に曲がるべきか?
左に折れるべきか?
前へと進む方がよいのか?
それとも、この道を引き返した方がよさそうなのか…
環境破壊やエネルギー問題、政治や経済に関すること…そして、この国が抱える様々な問題。
今、我々は様々に関する「YES」「NO」をちょっと立ち止まって考えてみる必要があるのかもしれない。
今、我々は時代のクロスロード(十字路)に立っている。
■引用元・参考文献『名盤の裏側:デレク&ザ・ドミノス インサイド・ストーリー』著/ジャン・レイド、訳/前むつみ(シンコー・ミュージック)