1961年にモータウンと契約した11歳のスティーヴィ・ワンダーは、12歳で”盲目の天才少年”リトル・スティーヴィ・ワンダーとしてデビューした。
そして1963年には「フィンガーティップス」が全米1位の大ヒットを記録、”盲目の天才少年”はスターダムに乗った。
当時のモータウンのスタッフやミュージシャンたちは、スティーヴィの好奇心と才能を見抜き、ベースやドラムやピアノの練習等、子供の彼につきあって教えていた。
モータウンのA&Rアシスタント・ディレクターのクラレンス・ポールは、とりわけスティーヴィーを可愛がった。シンガーの母親を持つクラレンス自身もシンガーだったので、自宅に呼んでポップスやジャズのスタンダード曲を教えてくれた。
しかし「フィンガーティップス」以降、スティーヴィの曲は期待の割にはさほど売れず、会社が”盲目の天才少年”にお金をかけすぎると、”重量超過”などという言葉で社内から妬みや非難の声があがり始める。
「フィンガーティップス」はスティーヴィの演奏するボンゴやハーモニカをフィーチャーした、歌らしい歌も入っていない曲だった。モータウンはその二番煎じのような曲、あるいは子供らしさを前面に押し出した曲ばかりを歌わせていた。
スティーヴィはその間にも歌や演奏の技術やセンスを磨いて、1965年に5枚目のアルバム『アップタイト』を発表する。
15歳になっていたスティーヴィはモータウン以外のポップ・ミュージック、例えばボブ・ディランの「ミスター・タンブリン・マン」や「風に吹かれて」などを自己流にアレンジして楽しんでいた。
クラレンスは「スティーヴィの年齢と、ディランを崇拝する白人のヒップな若者のことを考えれば、この曲はスティーヴィにとって必ずプラスになる」と考えて、自らがプロデュースして「風に吹かれて」をアルバムに収録した。
しかも社内の懐疑的な雰囲気を押さえ込んで、3枚目のシングルとして発売する。
●「風に吹かれて」(アルバムバージョン、音声のみ)
声変わりが終わったスティーヴィの伸びやかな歌声と、メッセージ性の強いボブ・ディランの曲を好んで歌う姿勢には、同世代の白人の若者とも人種を超えてスピリットを共有できる、そう感じたクラレンスの読みは当たった。
スティーヴィの「風に吹かれて」は、ポップチャートで9位にランクインするヒットになった。だがそれよりも重要だったのは、ソウルチャートで1位になったことだった。
ボブ・ディランのカヴァー曲が黒人たちに広く受け入れられることは、モータウンを含めて、多くのレコード会社は予想だにしていなかった。
スティーヴィにとってそのことは意義深い経験となり、その後の彼自身の音楽活動に影響を及ぼしていく。現在に至る彼のクロスオーバーで、ルーツ音楽に偏らない独自の音楽性は、ここが出発点となったのである。
※参考文献 「モータウン・ミュージック」 ネルソン・ジョージ著 林田ひめじ訳 早川書房
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