寺山修司が知人の音楽プロデューサーだった寺本幸司に誘われて、銀座にあったシャンソン喫茶『銀巴里』に出かけたのは、1968年の秋口のことである。
その頃の浅川マキは歌謡曲の「東京挽歌」でレコード・デビューしたものの、商業主義の軌道にはまったく乗れなかった。
だから歌を唄える場所はキャバレーか、シャンソン喫茶の『銀巴里』ぐらいしかなく、それも月に3回くらいしか仕事にならないという状態にあった。
寺本はマルチアーティストとして注目の存在だった、寺山修司に声をかけて歌を聴いてもらうことにした。
「ちょっと面白い歌手がいるから見に来てくれないか」
寺山修司はひと目で浅川マキを気に入ったようだった。
そして寺本に「彼女、詩人だね」と言った。
一緒に聴いていた元夫人の九条今日子によれば、寺山は「夜が明けたら」を聴いたとたんに「電流が走ったちゃったみたい」だったという。
「夜が明けたら」は日本の歌謡曲調ブルースではなく、アメリカの南部で生まれた黒人音楽に通じるジャズやブルーズの直系で、浅川マキが自分で作詞・作曲したものである。
寺山修司が浅川マキに提供した作品をつくるのに気合いが入ったのは、自分と同じ詩人を相手にしていると思っていたからだという。
また幼い頃に聴いていた美空ひばりの歌が大好きなことも、時代体験として共通していた。
そのあたりの事情を、九條がこう語っている。
マキも寺山も性格がすごくよく似てるんです。
言葉を大事にする歌手って、あの頃そんなになかったでしょ。
寺山は美空ひばりが好きで、ジャズや、ブルースも好きで、本人はすごい音痴なんですけど聴くのが好きで、耳がいいんです。
詩人ですから、マキも詩人だと思いますけど、詩から入るんですよね。
デビューしてからの数年間、美空ひばりは「河童ブギウギ」に始まって「拳銃ブギー」「あきれたブギ」「泥んこブギ」など、アメリカ生まれのブギを模した楽曲をたくさん唄っていた。
浅川マキは幼い頃から聴くとはなしに届いてきたそれらの歌が、大人になってから惹かれた黒人霊歌やブルースとも、根底でつながっているのかもしれないと自分で分析したようだ。
数少ない友人だった亀渕友香がインタビューで、こんな打ち明け話をしたことがある。
当時、歌の友達は私ぐらいだったですけど、「隙間のないくらいきちっとしている歌は、たぶん面白くないよね、どうやって言葉の言い方を変えていくか、削っていくかと、いう作業をしていかなくちゃね」って、そういう歌のことはいつも話していました。どうやったら心地いい歌がうたえるかってことを。
誰も信じないかも知れないけど、マキは美空ひばりさんの歌がすごくうまくて、そのとおり歌える人なんです。「美空ひばりはこういう風にうたうけど、私はこういう風にうたうのよ。そこが美空ひばりの美空ひばりたる所以なんだけど、そうじゃない風にしないと面白くない」って。
寺山修司がライブを見て「彼女はすごい」と言って詩を書きたいと申し出たことから、寺本は小劇場の「アンダーグラウンド蠍座」で芝居の要素が入ったコンサートを開催する計画を立てた。
”夜の劇場”というコンセプトを打ち出していた蠍座の支配人、葛井欣士郎のところに浅川マキを連れて行って面通しをして、コンサート企画にOKをもらった。
こうして寺山が12曲の詩を書き下ろすだけでなく、構成と演出までを手がけるコンサートが夜の10時から3日間、深夜に行われることが決まった。
このときほとんどの楽曲に曲をつけたのは、ジャズのフルバンドの名門「宮間利之&ニューハード」のギタリストで、アレンジを担当していた山木幸三郎である。
浅川マキが山木の才能に強く惹かれたのはニュー・ハードの生演奏を聴きに行って、「雀荘の四つの椅子」という曲で不思議なサウンドに魅力を感じたからだったという。
そのタイトルの演奏が始まったとき不協和音が若い女を覗いてはいけない未知の世界へと引きこむ。奇妙な高揚が軀のなかを走った。
美空ひばりと同じようにもうたえるが、そうじゃない風にしないと意味がないと考えていた浅川マキは、自分にしか表現できない音の世界を作るには、山木の音楽的な才能が必要だと直感したのだろう。
終演後に一人で楽屋を訪ねると、その場で作曲とアレンジを依頼した。
こうして寺山修司の詩に山木幸三郎が曲をつけて、ほとんどが新曲によるコンサートが12月13日、初日を迎えるのことになった。
オープニングは「夜が明けたら」から始まった。
(注)本コラムは2017年12月15日に公開されました。