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追悼・萩原健一~ショーケンが歌った「神様お願い」から始まったテンプターズの快進撃

2023.03.25

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ビートルズの来日公演に影響を受けたグループサウンズのブームの中に、ロカビリー時代の反社会的で危険な香りを持ち込んだのは、萩原健一(ショーケン)という稀有な表現者が持っている本質によるものなのだろう。

テンプターズの「神様お願い」が発表された1968年3月、18歳のショーケンの歌声やその立ち居振る舞いからは、ロックンロールの初期衝動とも重なる不良っぽさがブラウン管を通してでも伝わってきた。

それはちょうど10年前、熱狂的なムーブメントとなったロカビリーブームのなかで、なんとも言えない不良っぽいカッコよさを漂わせていた、山下敬二郎に通じるものがあった。

ショーケンと呼ばれる前、小学生だった萩原敬三は年が離れた兄や姉とともに育ったが、いつも向かいの酒屋さんの家に遊びに行っていたという。
目的は姉の同級生の娘さんが持っていたレコードで、「監獄ロック」や「ハートブレイク・ホテル」といったエルヴィス・プレスリーの歌を聞かせてもらうことだった。

その2曲が音楽に関するもっとも古い記憶だというのだから、7、8歳のころには早くもロックンロールに出会っていたのだ。
高校生だったかまやつひろしはエルヴィスが登場したときに、「すごいのが出てきたなぁ」と感心したと語っている。

「エルヴィス・プレスリーの登場がショッキングな出来事だったことはたしかだ。
彼はロックを若者の音楽にした革命児で、怒れる若者の代弁者のような反モラル的な匂いを発散していた」


1958年にロカビリーブームが巻き起こると、夢中になっていた姉たちと一緒に浩三も、地元の埼玉会館で開かれたコンサートに足を運んだ。
有楽町の日劇ウェスタンカーニバルにも連れて行ってもらって、姉に肩車されてステージの山下敬二郎に歓声をあげていた。

家にあるほうきをギター代わりにして山下敬二郎のアクションを真似をすると、兄や姉にウケるので嬉しかったという。



1965年、中学3年生のときに地元の埼玉でエレキバンドのテンプターズをバックに飛び入りし、ゲスト・ヴォーカルとしてビートルズの「マネー」とアニマルズの「悲しき願い」をうたった浩三は、ギタリストの松崎由治から「一緒にやんない?」と誘われた。

その後、自分で芸名を萩原健一(ショーケン)と決めてテンプターズに参加し、翌年から渋谷や赤坂、六本木でパーティーやジャズ喫茶のステージに立つようになった。

メンバーが着ていたユニフォームも、俺と松崎が言い出しっぺになって、やめさせちゃった。
「みんな、バラバラの洋服にしようよ」


前からいたメンバーたちがビートルズやアニマルズ、デイブ・クラーク・ファイブなどを例に持ち出して反発しても、こう言い返して主張を押し通した。

だけどさ、ローリングストーンズはユ二フォームなんか着てないじゃないかよ。


テンプターズのレパートリーはローリング・ストーンズ、アニマルズ、ヤードバーズといったイギリスのバンドだ。
そしてショーケンはといえば、ミック・ジャガー張りのステージ・アクションをやってみせた。

ギャラは一日三千五百円。ただし、五人全員で。ひとり頭、千円にもなりません。
でも、とりあえず、食っていければいい、と思ってました。お金を儲けるよりもブルース・バンドとして、自分のやりたい音楽を続けていくことが大切だったから。


それから1年後、1967年にザ・タイガースがデビューして本格的なグループサウンズのブームが到来すると、いろいろなところからさまざまなな人たちがテンプターズをスカウトにやってきた。

彼らはザ・スパイダースの田邊昭知が設立したスパイダクションと契約し、半年間の合宿生活を経てプロ・デビューすることになった。
先輩に当たるスパイダースのかまやつひろしは、デビュー前の彼らをこう回想していた。

しかし、ガラが悪くてまいった。
スパイダースが出演しているジャズ喫茶に遊びにくると、客席から「『サティスファクション』やれ!」などと怒鳴ったりするのだ。彼ら、ストーンズが好きだったから。懐しいね。


デビューが決まってレコードを出すというときにも、事務所との食い違いが明らかになっている。

さぁ、いざデビューってときから、ぼくは文句ばっかり言っていた。だって、変なアップリケのついたひらひらのユニフォーム着せられちゃってさ。あれには参った。もう、こっ恥ずかしくてさぁ、イヤだったな。すごくイヤだった。ホンットにイヤだった。
だから、デビュー曲の「忘れ得ぬ君」も、おれは歌わなかった。どうしても、歌いたくなかったから。



こうした事情があって、作詞・作曲した松崎が自分で唄うことになった。

幸いにもデビュー・シングルA面の「忘れ得ぬ君 」はまずまずのヒットになり、ショーケンが唄ったB面の「今日を生きよう」も、同じくらいにヒットしたのである。
これはグラス・ルーツが1967年に放ったヒット曲の「Let’s Live for Today」のカヴァーだが、なかにし礼の訳詞が秀逸だった。


周囲からの期待が高まるなかで、ふたたび松崎の作詞作曲による「神様お願い」がレコーディングされた。

わずか2分10秒たらずの短い曲だった「神様お願い」は、スピード感と切迫感に満ちあふれていたことで大ヒットした。
ショーケンはここからいっきに注目の存在となり、人気の頂点にいたタイガースのライバルと認められて、沢田研二(ジュリー)に対抗するスターになっていく。



<参考文献>ムッシュかまやつ著「ムッシュ! 」文春文庫、萩原健一著「ショーケン」(講談社)
(注)本コラムは2017年5月19日に公開されました。



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