1968年3月に発売した第2弾シングル「神様お願い」のヒットによって、テンプターズは先行していたタイガースのライバル的なポジションを得て、熱狂的なグループ・サウンズのブームの先頭に並んだ。
そして圧倒的な人気だったタイガースの沢田研二(ジュリー)に対抗できる、アイドル的なスターになったのがヴォーカルの萩原健一、ショーケンだった。
似合わない美少年アイドル的なコスチュームを身にまとっていても、ひとたび演奏と歌が始まるとショーケンからは、なんとも言えない不良性と危険な匂いが漂ってきた。
ショーケンの爆発的な人気は主にテレビと芸能雑誌によって、日本中の女子中高生たちの間に急速に広まった。
テンプターズには女の子たちばかりでなく、男性ファンもつき始めた。
だがショーケンはそうした状況の中で、デビューした時から、いや、その前からすでに芸能界の空気に強い違和感を覚えていた。
本当はデビューしたその日から、ぼくはもう一日もテンプラーズを早く解散したかった。したくもない恰好をさせられて、歌いたくもない歌を歌わせられるのがたまらなかった。
もともとタイガースもテンプターズもエレキ・ブームの中で仲間同士でバンドを始めて、ビートルズやローリング・ストーンズを知って夢中になったロック少年たちだった。
どちらのバンドもオリジナルの大ヒット曲が出て人気が沸騰していた時期に、ライブではローリング・ストーンズの楽曲を主要なレパートリーにしていたところも共通している。
タイガースのファーストLPとなった『ザ・タイガース・オン・ステージ』は、1967年8月22日に大手町サンケイホールでの初リサイタル「ザ・タイガース・ア・ゴー・ゴー」のライブ盤である。
Side One
1. ダンス天国~ラ・ラ・ラ
2. タイガースのテーマ(モンキーズのテーマ)
3. ルビー・チューズデイ
4. レディ・ジェーン
5. タイム・イズ・オン・マイ・サイド
6. アズ・ティアーズ・ゴー・バイ
7. スキニー・ミニー
Side Two
1. 僕のマリー
2. シーサイド・バウンド
3. モナリザの微笑
4. ローリング・ストーンズ・メドレー
5.アイ・アンダスタンド
「ローリング・ストーンズ・メドレー」の内容は、「エヴリバディ・ニーズ・サムバディ」「ペイン・イン・マイ・ハート」「アイム・オール・ライト」である。
1969年7月25日にリリースされたテンプターズのライブ盤にも「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」と「サティスファクション」、そして「ストーンズ・メドレー」として「エブリバディ・ニーズ・サムバディ~ペイン・イン・マイ・ハート~レディー・ジェーン」が収録されている。
現在と違って当時はアマチュアで演奏活動をしながら、自分たちの音楽を作り上げていくためのライブハウスや練習スタジオなどは存在していなかった
もちろん作品をレコーディングして発表できるようなシステムもなかった。
だから仲間内のパーティやジャズ喫茶、ディスコなどに出演して場数を踏みながら、プロの前座を務めたりすることで経験を積んで腕を磨いた。
ほとんどのバンドにとって、それが音楽活動を続けるための唯一の方法であった。
そんなバンドに価値を見出してくれるのは、彼らの人気をビジネスにすることができる芸能プロダクション、そしてレコード会社とマスコミである。
バンド活動に専念するために芸能プロダクションと契約できたバンドは、毎月の給料を保証してもらった上で、ジャズ喫茶やビアガーデンなどの仕事をしながら、レコード会社からプロとしてデビューするチャンスを待った。
プロダクションとしては先行投資をしてレコードを出すのだから、何よりもヒットさせることが先決となる。
そのためにはビートルズ以降のロック時代にふさわしい、新しいセンスを持った才能、売れる楽曲を書けるソングライターが必要だった。
1967年2月にデビューしたタイガースが作曲・すぎやまこういち、作詞・橋本淳という師弟コンビによる「僕のマリー」「シーサイド・バウンド」「モナリザの微笑」を連続ヒットさせて、驚異的な成功を打ち立てたことが、そうした流れを決定づけた。
そんな動きと関係して横浜で活躍していた実力派のバンド、ザ・ゴールデン・カップスが6月にレコード・デビューを果たした。
英語でしか歌ってこなかった彼らのデビュー曲は「いとしのジザベル」、作曲と編曲を鈴木邦彦が担当して、なかにし礼が作詞して成功を収めた。
1966年にデビューしたものの軌道に乗らなかったヴィレッジ・シンガーズも、8月に「バラ色の雲(作詞・橋本淳 作曲・筒美京平)がヒットした。
そして翌年2月には「亜麻色の髪の乙女(作詞・橋本淳 作曲・すぎやまこういち)が大ヒットする。
こうしてレコード会社やプロダクションによって新鮮な人材が発掘されて、その中から作詞家では橋本淳、なかにし礼、山上路夫、阿久悠、作曲家ではすぎやまこういち、鈴木邦彦、筒美京平、村井邦彦などの才能が登場してきた。
若くて才能あるソングライターが本領を発揮したからこそ、グループ・サウンズが一大ブームになったとも言えるだろう。
しかし、テンプターズには松崎由治というバンド・リーダーがいて、自分でもソングライティングを行っていた。
そのためにデビュー曲「忘れ得ぬ君」とセカンド・シングルの「神様お願い」は、当時にしてはめずらしくオリジナル楽曲で勝負していた。
そこにはバンドのメンバーたちの音楽性を認めて、才能を引き出してくれたスタッフの存在が大きかった。
フィリップス・レコードの担当ディレクターだった本城和治は、グループ・サウンズの先駆けとなったスパイダースを手がけて、メンバーたちとともに海外進出を図るなどした経験があった。
彼はもともとは洋楽部のディレクターだったが、旧態依然としたそれまでの歌謡曲作りとは違うアプローチで、日本の若者が本当に求めている音楽を作ろうと考えていた。
だからバンドのオリジナル作品を重視してくれたのだ。
本城は「たとえ録音に時間がかかろうとグループのメンバー全員で考えながら彼ら自身の音で演奏し、作り上げてゆく」という方法を選んだ。
そうした判断が正しかったことで、テンプターズはたちまちのうちに人気グループになった。
だが一方で、テンプターズのブレイクによってブームがさらに加熱したことから、芸能プロダクションとレコード会社による安易な作品と、商業主義一色のグループが粗製乱造される傾向も表れてくる。
そんな中で1968年6月15日、テンプターズの3rdシングル「エメラルドの伝説」が発売になった。
これが大ヒットしてヒットチャートの1位を獲得したことで、ついにグループ・サウンズのブームは頂点に達する。
「エメラルドの伝説」もまたメンバーではなく、選りすぐりのプロによって作られた楽曲だった。
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TAP the POPメンバーも協力する最強の昭和歌謡コラム『オトナの歌謡曲』はこちらから。
(注)本コラムは2017年6月2日に公開されました。
<参考文献および引用元>萩原健一著「ショーケン」(講談社)、「グループ・サウンドのすべて」ペップ出版