テレビドラマの主題歌だった美空ひばりの「柔」は、1964年11月20日に発売されると、翌年にかけて大ヒットし第7回日本レコード大賞ではグランプリに選ばれた。
そして翌66年には生涯を通しての代表曲となる「悲しい酒」が、シングル盤として6月10日発売になった。だがこの歌はそのまま、スムーズにヒットしたわけではない。
「悲しい酒」はレコードとは異なるライブ・ヴァージョンがファンの間に浸透し、コンサートを通して押しも押されぬ名曲に育っていったのである。
そもそもこの楽曲は作詞家の石本美由起がコロムビアのディレクターから、「酒は涙か溜息か」の現代版を書いてほしいという依頼を受けて、1960年に作詞した作品だった。
演歌の父とも言われる作曲家の古賀政男は、戦前戦後を通してギターやマンドリンといった西洋の楽器と、日本調のメロディーを組み合わせることで、その時代の大衆に受け入れられる歌謡曲をつくり続けた。
戦前に書いた代表曲の「酒は涙か溜息か」は、ギターの伴奏だけで歌われるシンプルな哀歌(エレジー)だ。
さけはなみだかかめいきか かなしいうさのすてどころ(「酒は涙か溜息か」)
石本はその歌詞と同じ文字数の七五調で、「悲しい酒」の歌詞を書いた。
ひとりさかばでのむさけは わかれなみだのあじがする(「悲しい酒」)
8分の6拍子の哀歌(エレジー)を作曲した古賀は弟子のなかから、これを北見沢惇という歌手に唄わせた。だがこれといった反響もないまま、「悲しい酒」はすぐにマーケットから消えてしまった。
石本がそのごの展開について、このように述べている。
その歌を心底気に入ってくれていた古賀先生は、残念がっていましたが、「この人と思える歌手が現れるまで世に出すのをよそう」と歌を封印してしまったのです。何人ものプロデューサーが、自分が担当する歌手に歌わせてくれと頼みに行ったけど、古賀先生は首を縦に振らなかった。そうして一年、二年という時間が過ぎ、北見沢淳が亡くなって五年目、ようやく古賀先生が封印を解く気を起こす歌手が現れました。
美空ひばりさんです。そして、その歌、「悲しい酒」は最高の歌い手を得て、私の才能を遥かに超えるものへと育ち始めました。
ここで石本が「私の才能を遥かに超えるものへと育ち始めました」と語ったのは、比喩ではなく事実だった。レコーディングを行った。
ところが6月から新宿コマ劇場で開かれる1ヶ月公演の舞台のリハーサルで、実際に唄ってみた美空ひばりは、レコードよりもテンポを落としたほうが自分の感情と歌がひとつになることに気づいたのだ。
そこで最も気持ちが入るテンポにまで落としていくと、レコードよりもかなり遅くなって、1番と2番の間奏が持たなくなったという。そこに台詞があればもっと歌が引き立つと思った美空ひばりは、すぐ石本に電話で石本に気持ちを伝えた。
それに応じた石本が頭に浮かんだ台詞をリハーサル中の美空ひばりに、急いで電話で送ったことで「悲しい酒」という歌には、新しい命が吹き込まれることになったのである。
ゆったりとしたテンポでたっぷり情感を込めて唄われる「悲しい酒」は、悲しみを倍加させる台詞の効果もあって、会場で聴いたファンの間ですこぶる評判が良かった。
あらためて台詞入りでレコーディングされるた「悲しい酒」は、翌年の3月15日に4曲入りのEP盤として発売になった。そしてテレビ出演時にも歌われるようになり、そのときに美空ひばりがほんものの涙を流したこともあって、次第にに代表曲へと成長していったのだ。
29歳になっていた美空ひばりが日本人のメンタリティーともいわれる未練と諦めをうたう「悲しい酒」を歌ったことで、伝統的な日本の情念を表現する歌手として不動の地位をものにした。
美空ひばりと「悲しい酒」について、石本がこんな感慨を述べている。
日本人は哀愁民族だと思います。夢や希望を語るよりも人生の悲哀を忘れないでおこうとします。悲しい心を酒で忘れると言いながら、その悲しみを実は大事にしている。私はあの歌で、日本人らしさを問おうとまでは思いませんでしたが、ひばりさんが歌ったことで、表面的な成長の裏にある日本人の情念を語るような歌にまで育っていったのですね。
(注)本コラムは2018年6月22日に公開されました。なお石本美由起の言葉は『別冊サライ 大特集 酒 五分間の芸術 美空ひばりの「酒」石本美由起』(小学館)からの引用です。
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