「矢切の渡し」は、江戸川にあった実在した渡し船と船着場を舞台にした歌で、ちあきなおみの演歌において代表作のひとつになっている。
それは1976年のことだった。NHKの紀行番組『新日本紀行~消えゆく矢切の渡し』を見ていた作曲家の船村徹は、東京都葛飾区の柴又と千葉県松戸市の矢切を結ぶ渡し船が、いよいよなくなると知った。そこで、今のうちに曲にしなければいけないなと思いたって、すぐに葛飾区柴又まで行ってみた。
その頃はもう渡し船が動いてはいない状態で、河川敷に木造の船が立てかけられていた。陸上で風にさらされている木造の船は、木材に隙間ができてバラバラになってしまう寸前のようだった。
船村徹はそんな状態の渡し場を見た帰りに、柴又名物の帝釈天で参道にある料理屋に寄った。
帰りに、以前に行ったことのある川魚の料理屋で一杯飲んで、昼食をとった。店の人に「渡し船はもう駄目なんだね」と言うと、「誰も乗らないもの」と言われた。
その足で赤坂にあったレコード会社のコロムビアに寄ってみると、ちょうど作詞家の石本美由紀が歩いてきた。久しぶりなのでお茶を飲みながら二人で話しているうちに、江戸時代からの情緒が失われていく矢切の渡しの様子を話すと、石本もテレビを見て関心を持っていた。
「僕もちょっと考えてみよう」と言って別れてから四、五日ほどで、石本から男と女の駆け落ちを題材にした歌詞が送られてきた。そこでは歌い出しの2行に、追いつめられた二人の気持ちが見事に描きわけられていた。
船村はそれを見て、「詞に負けない曲を作らねば…」と気合が入った。そして「歌詞の情景が浮かび上がるような曲を作りたい」と思った。
さだめに身をまかせる舟のたよりなさを、船村はエンジンの付いていない小さな和船のイメージに重ねた。和船はひとが櫓で漕ぐものだから、ひとが漕ぐリズムでゆっくり進んでいくメロディーになった。
これは初めから、ちあきなおみ君に歌ってもらおうと決めていた。ちあき君は、以前は演歌風の歌を嫌っていたのだが、この前年に石本さんと私とで作った「さだめ川」という歌がヒットしたことがある。石本、船村コンビなら演歌でも歌うと言ってくれたのだ。
このときに石本・船村コンビの作品で、「さだめ川」につながる”川”シリーズの「酒場川」も作られて、レコ―ドはA面が「酒場川」で、B面が「矢切の渡し」となった。
しかし、船村が会心の作品ができたと思った割に、さほどのヒットにはならなかった。
私としては「矢切の渡し」をA面にすべきだと考えていたのだが。案の定、九州や関西で火がついたのは「矢切の渡し」の方である。いい歌があるんだという噂がじわじわと広まっていったようだった。ただ、やはりB面だったと言うことと、ちあき君の歌が素晴らしすぎて、観賞用になってしまったことが相俟って大ヒットとはならなかった。
その頃からカラオケが大流行し始めていたことで、素人にも歌いやすい易しい歌が好まれる傾向がなっていた風潮も影響した。女と男の気持ちを歌い分けなければならない「矢切の渡し」は、どちらかと言えば表現力に長けた歌手に向いた曲だった。
それから6年が経った1982年、すっかり忘れられかけていた「矢切の渡し」に再び注目が集まったのは、人気を集めていた大衆演劇の梅沢富美男が舞踊演目に用いてからのことである。
梅沢武夫劇団の看板女形役者だった梅沢富美男の「下町の玉三郎」がブームになり、兄の梅沢武夫と二人で踊る演目に「矢切の渡し」が誓われていたのだ。
さらにはその年の6月に放送が始まったTBS系列のテレビドラマ『淋しいのはお前だけじゃない』で、脚本家の市川森一が、梅沢富美男の舞踊とともに劇中歌として何度も取り上げた。
その影響で一気に挿入歌として知られ、ドラマも高視聴率を上げていった。レコードが廃盤になっていたので手にはいらないために、有線放送にリクエストが集中して人気が上昇して1位になった。
そして10月21日には「矢切の渡し」をA面としたちあきなおみのシングルが発売になり、その歌唱力があらためて話題を集めて本格的なヒットになっていく。
だが、そこから先には芸能界における様々な事情からレコードの発売が止まってしまい、翌年に細川たかしのカヴァーがヒットするのだった。
ちあきなおみ・しんぐるこれくしょん
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