日本語のままアメリカで大ヒットした「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」は、今では世界中で知られているスタンダード・ソングであり、音楽家・中村八大の最高傑作に挙げられる。
中村八大が中国の青島に生まれた1931年、満州事変を起こした日本は6年後に起きた支那事変を契機にして、中国との全面戦争に突入した。
そして世界から孤立して米英諸国をも敵に回すことになり、無謀にも第二次世界大戦へと突き進んでいって敗戦を迎える。
だが、そんな時期であったにもかかわらず、クラシック音楽を学んでいた小学生の八大少年は、ドイツ租界から発展した国際都市だった中国のの青島で、意外なことに落ち着いていてお伽噺のような少年時代を過ごしたという。
洋館を改造した家にはいつでも弾けるドイツ製のピアノがあり、たくさんの楽譜とレコード、そして手動式の蓄音機が揃っていた。
「長姉が三浦環門下で声楽を習っていたので、家でピアノも弾いていた。長兄はクラリネットを吹き、次兄はドラムを叩いていた。すぐ上の和子姉さんも、声楽を習うようになったので、我が家は文字通りの音楽一家になった」
いわゆる大陸育ちだった影響なのか、中村八大には大人になってからも日本人的な心情、じめじめとしたシガラミみたいなものを、どこか理解できないところがあったという。
そのせいなのかもしれないが、一生懸命にウエットになったつもりで作曲したのに、自然にカラッとした明るい感じの曲が出来上がってきたと述べている。
そういう意味において中村八大という音楽家は、最初から世界を目指した国際人であり、ジャズ。ピアニストとして活躍していた頃から、人種への偏見や差別などには一切とらわれず、音楽のジャンルあるいはヒエラルキーとも無関係な自由人だった。
戦後のジャズブームのスターだった中村八大は、流行歌や歌謡曲といったものに対しては関心が薄かった。
しかし作曲家になってからは、”新しい日本の歌と音楽”を目標にして、海外のリズム・アンド・ブルースやロックンロール、ドゥーワップ、あるいはビギンやサンバなどを積極的に取り入れて、きわめて斬新な作品を生み出していった。
そして1959年に映画のために手がけた「黒い花びら」が、第1回日本レコード大賞に選ばれて大ヒットしたことから、1960年代の音楽シーンを牽引していくことになる。
戦前・戦中の流行歌とは明らかに異なる”日本の新しい歌と音楽”を作ったことによって、中村八大は作詞のパートナーだった永六輔とともに、日常会話の口語体を使ったリズムカルなポップスをヒットさせていった。
中村八大が残した楽曲はいずれも発表当時にあっては革新的なもので、その時代において”ニューミュージック”と呼ぶに値する音楽であった。
それらの楽曲の多くは半世紀が経過した現在もなお、スタンダード・ソングとなって広く歌い継がれている。