エルヴィス・プレスリーに憧れてロックンロールに目覚めた坂本九が、バンドボーイを振り出しに米軍キャンプやジャズ喫茶でのライブで経験を積み、「日劇ウェスタンカーニバル」の舞台に立ったのは1958年の夏のことだ。
そのとき坂本は18歳で、歌ったのはリトル・リチャードのカヴァー曲だった「センド・ミー・サム・ラヴィン」。
ダニー飯田とパラダイスキングのヴォーカル担当として人気が出始めると、坂本九は持ち前の明るい笑顔と面白いアクション、人懐っこいキャラクターで、テレビという新しいメディアを通して日本で最初のアイドルになっていく。
坂本九はエンターテイナーの資質を持っていただけでなく、それに磨きをかけようと日頃から意識的だった。
「坂本九ってのは、おかしなやつだというので、テレビで使われ始めたころから、ぼくは、番組のなかで、どこか一ヶ所だけ人と変わったことをしてやれと努力しました」
明るくてコミカルな「悲しき60才」やR&Bのカヴァーによる「ステキなタイミング」、エルヴィスをカヴァーした「GIブルース」、オリジナルの「九ちゃんのズンタタッタ」など、続けざまにシングル盤がヒットしたのは1960年から61年にかけてのことだ。
そして7月21日には運命を決めた楽曲「上を向いて歩こう」と出会い、それを中村八大のリサイタルで歌っている。これがNHKの音楽バラエティ『夢であいましょう』で取り上げられて大反響を呼んだことから、10月にはレコードが発売になってヒットした。
こうして人気が急上昇した坂本九は20歳になると同時に、アイドルとしての人気者というだけでなく、独特の軽やかさを放つ庶民的な歌手として認められていく。
それから1年半が過ぎた1963年の春、坂本九の歌った日本語のまま「上を向いて歩こう」がアメリカのラジオ局で流れ始めた。ノンプロモーションにも関わらず多くのリクエストが寄せられたので、キャピトルから急きょ「SUKIYAKI」というタイトルで、レコードが正式に発売されたのは4月の終わりだった。
それが1963年6月15日から3週間、全米シングルチャート1位に輝く快挙を達成したのである。
本人も知らないところで音楽史に残る世界的なヒット曲になったのは、楽曲やアレンジが良かったことはもちろんだが、坂本九のキュートな歌声が人種や言葉の壁を超えて、世界中のティーン・エイジャーの心に届いたからだった。
そうした話題もあって日本でも「上を向いて歩こう」がリバイバル・ヒットしたその年は、自らが希望して主演したミュージカルの主題歌「見上げてごらん夜の星を」がヒットし、さらに新曲の「明日があるさ」も続けてヒットした。
老若男女を問わずあらゆる階層の人たちから支持される国民的なスターとなった坂本九は、歌うだけでなく演技も司会も出来るオールマイティのエンターテイナーを目指して精進を重ねていった。
マルチ・タレントとしてテレビ、映画、舞台に引っ張りだこの日々が続くなかで、NHK「紅白歌合戦」の司会という役を引き受けたのは1968年のことである。そのとき27歳、オールマイティなエンターテイナーとしては頂点に登りつめたことになる。
しかし、誰もが理想とする好青年という役割を与えられたためなのか、以前に比べると歌手としてのヒット曲が出なくなっていった。「紅白歌合戦」の司会を引き受けたときから、「かつての栄光の歌手」という道が始まったのかもしれない。
年が明けた正月に発行された後援会の会報に、坂本九は「27才の夜明け」と題する所感を寄稿していたが、正直にこう語っている。
「今年は何としてもいい唄、ヒットする唄を出したいですね。そして、その歌を歌いたい」
だが1968年から69年にかけて日本の音楽シーンは、あらゆる面での新旧交代が始まっていた。
その年はカルメン・マキの「時には母のない子のように」、由紀さおりの「夜明けのスキャット」、ちあきなおみの「雨に濡れた慕情 」、藤圭子の「新宿の女」と、新人が唄う孤独な歌や、悲しみに寄り添う歌詞が好まれた。
それは歌をつくって送り出す側も受け取る側も、それまでの芸能界のシステムが変わっていくことを敏感に察知していたからだろう。そして1970年代に入ると同時に、若いシンガーソングライターたちの活躍する時代がやってきた。
坂本九は新しい表現の道を模索して、自分でも少しずつソングライティングに挑戦し始めている。私生活では1971年に女優の柏木由紀子と結婚して家庭を築き、2年後には長女が誕生した。
結婚によって家庭を持ったことを機に芸能活動は安定したペースに入り、テレビのドラマ出演やナレーション、司会と仕事の幅は広がっていった。
1973年にスタートしたNHKの人形劇「新・八犬伝」では、進行役とナレーションを務めてドラマを盛り上げるだけではなく、新たに多くの子供たちをファンにした。
そして1975年には単身で渡米し、アメリカのアレンジャーとミュージシャンとともにレコーディングを行っている。これはアメリカでの知名度を利用して、日本の新しい歌を世界に向けてアピールするという試みだった。
若いシンガー・ソングライターたちの手で生まれた新鮮な楽曲のなかから、長く歌い継がれていくであろうと思われる楽曲、つまりは未来のスタンダード・ソングをカヴァーしたアルバムは、『ターニング・ポイント』と名付けられた。
まだブレイクする前だった小田和正の曲が1曲目に選ばれているように、そこで取り上げた楽曲は粒ぞろいで個性的だった。
かつての栄光の歌手というポジションに安住するのではなく、日本のスタンダード・ソングを発見して育てていくことに挑戦したのである。
こうしてみると、坂本九がほんもののシンガーへと、新しい一歩を踏み出していたことがわかる。
『ターニング・ポイント TURNING POINT 坂本九』
○A面
1.やさしい雨(作詞・作曲:小田和正)
2.心もよう(作詞・作曲:井上陽水)
3.東京(作詞・作曲:森田貢)
4.ミスター・クラウディスカイ(作詞・作曲:五輪真弓)
5.22才の別れ(作詞・作曲:伊勢正三)
6.神田川(作詞: 喜多條忠 作曲:南こうせつ)
○B面
1.うちのお父さん(作詞・作曲:南こうせつ)
2.襟裳岬(ELIMO)(作詞:岡本おさみ 作曲:吉田拓郎)
3.氷の世界(作詞・作曲:井上陽水)
4.心の旅(作詞・作曲:財津和夫)
5.若者たち(WHY)(作詞:藤田敏雄 作曲:佐藤勝)
6.悲しい歌は唄わない(作詞・作曲:吉川忠英)
しかしあまりに先駆的であったことから、このアルバムはアメリカでも日本でも商業的に成功しなかった。だが、21世紀に入ってから起こるカヴァー・ブームの魁となる、画期的な内容とクオリティがあったことは、改めて日本の音楽史に記録されてほしい。
坂本九「ゴールデン・ベスト」
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