キース・リチャーズ(Keith Richards)の27歳
ブライアン・ジョーンズの死やオルタモントの悲劇など、激動の1969年を終えたローリング・ストーンズの次なる試練は、ずばり“金”だった。
驚くべきことにメンバー全員が破産寸前だったという。原因はバンドの財政を握っていた弁護士アレン・クラインとの金銭トラブル、そして当時のイギリスにおける高額な税金徴収にあった。
こうしてストーンズ一行は1971年4月、南フランスへ“逃亡”することになるが、母国を捨てることは、それまでのファンに愛想を尽かされるかもしれない。バンドにとっては致命傷になるとまで言われ、移住計画は大きな賭けだった。
しかし、頂点を迎えつつあった彼らは心機一転、自身のローリング・スートンズ・レコードを設立(ベロマークで有名)。キース・リチャーズ曰く「音楽のエリート集団に加わったような気分だった」R&B/ソウルの名門アトランティック・レコードと販売契約を果たし、5月にはレーベル第1弾となる『Sticky Fingers』をリリースして、賭けに成功する。
この頃、リヴィエラ海岸が一望できるコート・ダジュールの絢爛豪華な“ネルコート宮殿”で、事実上の妻アニタ・パレンバーグや息子マーロンとともに暮らしていた27歳のキース・リチャーズは、仲間たちと一緒に地中海での気まぐれなボート遊びや極上のドラッグタイムに耽る日々の中、次のアルバム制作を主導していく。
「ロマンチックな場所。時間の感覚がなくなって、まるで夢のようだった」とアニタが惚れ込んだ1890年に建てられたこの別荘には、次第にメンバーやサポート・ミュージシャンたちが長期滞在するようになる。南フランスの田舎町でのスタジオ探しが難航する中、ネルコートはやがて必然的に、常識外れのレコーディングの場へと姿を変えていった。
「マイティ・モービル」と名付けられた8トラックの録音装置を備えた自前の移動式スタジオ。モービル・ユニットのトレーラーがネルコート宮殿の正面玄関に強引に停められ、コンセントにつなげられる。
湿気にまみれた地下室に、好きな時間帯に集まってくるメンバーやゲストたち。巨大な迷路のような空間を行き交いながら、真夜中から朝方にかけて毎日のように続けられる音探しや演奏。
一見無謀とも思えるこうした作業を経ながら、次のアルバム用の曲が出来上がった。ドラッグ漬けだったキースは、この時最長9日間も眠らずに仕事に没頭したという(最後は床に崩れ落ちた)。
イギリスからフランスへ移住し、愛してやまないアメリカ南部の音楽を、自分たちなりの表現で高めた流浪の民の新作『メイン・ストリートのならず者』(Exile on Main St./1972年5月リリース)は、華麗かつ危険なロックスターライフを地で行ったキース流儀で作られ、現在では「ストーンズの最高傑作」であるばかりではなく、「ロック史上最強のアルバム」と評されている。
「畑を2回耕す時間はないよ。『こんな感じだな』と言って、どんなのが出てくるかやってみる。そこで気がつく。いいバンドにいると、本当に必要なのは小さなアイデアだけだってことに。そしてそれは小さな花火になり、夜が明けるまでには美しいものになっているんだ」
常識外れのレコーディング
その様子は、ドキュメンタリー映画『ストーンズ・イン・エグザイル〜「メインストリートのならず者」の真実』に詳しい。
ロック史上最強のアルバム
このアルバムを初体験する時、キングス・オブ・レオンのカリブ・フォロウィルのコメントがその興奮を代弁してくれる。「フランス産なんて凄い! てっきり毎晩メンフィスあたりでバーベキューして、パーティ三昧かと思ってた」
キースが歌う「Happy」や極上のカントリーナンバー「Sweet Virginia」。アルバムリリース後の全米ツアーより。
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*参考・引用/キース・リチャーズ自伝『ライフ』(棚橋志行訳/楓書店)、DVD『ストーンズ・イン・エグザイル〜「メインストリートのならず者」の真実』
*このコラムは2014年2月に公開されたものを更新しました。
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