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笠置シヅ子27歳〜ジャズが御法度とされた戦時中、警視庁が彼女に禁じたものとは?

2026.03.29

“ブギの女王”と呼ばれ、戦後の日本において一世を風靡した歌姫、笠置シヅ子。

1927年(昭和2年)、13歳で「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校・日本歌劇学校の前身)の受験に合格し、芸名・三笠静子として『日本八景おどり』で初舞台を踏む。

1938年、20代半ばを迎えた頃、東京に進出した松竹歌劇団に移籍。その頃の日本は戦時体制に入り、次第に反米感情が増す中でジャズが敵性音楽として取締りの対象になり始める。

時を同じくして、戦後の歌謡界をリードすることになる作曲家、服部良一と出会うこととなる。いち早くジャズを歌謡曲に取り入れていた作曲家と出会ったことで、運命は大きく変わり始める。

服部良一によってコロムビア専属に迎えられ、「ラッパと娘」「ホットチャイナ」などがリリースされるが、激しく踊り歌う笠置シヅ子のステージは当局の目に留まるところとなり、マイクの周辺の1メートル前後の範囲内で歌うことを強要されるようになる。


ある日、警視庁に呼び出された笠置シヅ子は、こんな言葉で注意を受ける。

「戦意を昂揚しないといけない時に、あなたの歌と派手な動きは雰囲気があんまり出過ぎて困る。とうぶん遠慮して直立不動で唄ってくれないか」


歌と踊りは彼女にとって一体の芸であり、切り離すことなどできない。動きを禁じられたら“笠置シヅ子”の存在そのものを否定されたものと同様だ。その時のことこう語っている。

「まぁあれは懇談的なもんやったけど、どこかの新聞には“笠置シヅ子叱られる”と大きく書きたてられましたわ(笑)。河童が陸に上がったよりも、もっと惨憺たる気持ちでっせ。こんなみじめなもんあらしめへん。それから5年間、戦中のブランクはアテの地獄でした」


そしてついに、1941年、27歳を迎えた年に松竹歌劇団は解散に追い込まれる。日中戦争から第二次世界大戦中は活躍の場が限られ、自身で“笠置シズ子とその楽団”を率いて、地方巡業や工場慰問などで戦時中を凌ぐこととなる。


敵性音楽のジャズが御法度となったので、服部は笠置のために東南アジアを舞台にした「アイレ可愛や」という曲を与えた。歌手は持ち歌がないと仕事にならないため、この歌は当時の笠置を救った一曲とも言える。

服部は自伝『僕の音楽人生』の中で、笠置シヅ子との出会いについてこんな風に語っている。

「大阪で一番人気のある歌手と聞いていて、どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませていたのだが、僕の前にあらわれたのは、髪を無造作に束ねてコテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子だった。だけど彼女がいったん舞台に立つと全くの別人だった。三センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って“オドウレ!踊れ!”と掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格で、なるほど!これが世間で騒がれていた歌手か!と納得したものです」



<引用元・参考文献『ブギの女王・笠置シヅ子』砂古口早苗(著)現代書館>


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執筆者
【佐々木モトアキ プロフィール】
https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12648985123.html

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