「銀座カンカン娘」/高峰秀子(SP盤)
日本随一の繁華街、銀座。
戦後復興と共に歩んだ昭和の時代…この街を舞台に、数々の歌が生まれた。
「銀座カンカン娘」は1949年(昭和24年)、すなわち終戦の4年後につくられた同名の映画の主題歌として主演女優の高峰秀子(たかみねひでこ)が歌った曲である。
美空ひばりから井上陽水まで、ジャンルを問わず数多のシンガー達がカヴァーしてきた昭和の名曲だ。
「東京ブギウギ」「青い山脈」「蘇州夜曲」などのヒットでも知られる“和製ポップスを築いた音楽家”服部良一の代表曲でもある。
高峰秀子(享年86)は北海道・函館市出身で、1929年5歳の時に映画『母』(1929年・昭和4年)でデビュー後、天才子役として注目を集め、成人後も「デコちゃん」の愛称で国民的人気を博した女優だ。
彼女は4歳の時に母を結核で亡くし、かねてから秀子を養女にと望み、名付け親にもなった父の妹・志げの養女となって東京に移り住む。
思いがけないきっかけから5歳で映画のオーデションに合格すると、たちまち子役として撮影所の人気者となる。
養母はその収入をあてに生活をするようになり…さらには北海道から生活苦に陥った祖父一家が引っ越してきたりして、彼女が13歳の時には養母を含む親族9人の生活費を稼ぐ役割にされていたという。
子役として人気があったとはいえ、収入はまだ少なく…いくら沢山映画に出演して頑張っても、家計はいつも火の車だった。
仕事のために学校には行けず、小学校の時に1か月ほど通っただけだった。
子供らしい普通の時間も持てず、撮影でお金を稼ぐ毎日だったという。
学校へ行かなかったために、掛け算は大人になってもできなかった。
本を読むのが好きで、眠る前の布団の中で寸暇を惜しんで読もうとしても、学のない養母は「私への厭味(いやみ)かい!」と言って、いい顔をしなかったのだという。
彼女は執筆したエッセイ『私の渡世日記』で、自身のことをこんな風に語っている。
当時、二十五歳の私は、好むと好まざるとにかかわらず、人さえ見れば歯をムキ出して愛想をふりまかねばならむ「人気女優」という立場にいた。
いつも明るく美しく微笑んで、人を楽しませるために演技をする人形のような“人気スター”であった。
人には見せたくない部分、つまり売り物にはならぬ部分はすべてひっくるめて心の底に隠しこんでいったつもりだったのに、カンバスの中の私の表情は明らかにけわしく苛立って今にも泣きだ出しそうに歪んでいた。
キャメラの前では絶対に見せない、私だけしか知らない本当の私がそこにいた。
昭和初期、テレビが一般に普及する前は映画が娯楽の中心であり、映画と音楽は蜜月の関係にあった。
このミュージカル的な要素を取り入れた映画『銀座カンカン娘』では、高峰秀子と笠置シヅ子と岸井明が、銀座のキャバレーで客を相手に同名の主題歌を楽し気に歌う。
実は高峰秀子がレコードにしたバージョンとは違い、映画では笠置シヅ子が歌った“幻の歌詞”から始まるのだ。
「銀座カンカン娘」/映画『銀座カンカン娘』より
歌い出しの部分では“カンカン帽(麦わら帽子の一種)”が登場するのだが、レコード化される時に意図的に外されのだという。
だとすれば…誰かが何らかの理由で、この「カンカン」という言葉に“帽子だけではない”ニュアンスを含ませたことが推測される。
耳なじみも良く、何とも不思議な響きを持つ「カンカン」という言葉に、一体どんな意味が込められたのだろうか?
【佐々木モトアキ プロフィール】
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【TAP the POP佐々木モトアキ執筆記事】
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