1960年5月1日、加山雄三は東宝と専属契約を結ぶ。
二ヶ月前に慶應義塾大学法学部を卒業したばかりの彼は、その夏、三船敏郎主演の映画『男対男』でデビューを果たす。
23歳で芸能界入りした加山の当時の夢は、自分の船を持つことだったという。
翌年、シングル「夜の太陽/大学の若大将」で歌手キャリアもスタートさせる。
東宝の若手看板スターとして一躍脚光を浴びた彼は、映画『若大将シリーズ』でその人気を不動のものとする。
一方で黒澤明、成瀬巳喜男、岡本喜八といった名匠たちの作品に多く出演し、俳優としてのキャリアも着実に重ねていく。
そして…1964年8月、27歳になった“若大将”は一つの夢を叶える。
12メートル、17トンの船、初代・光進丸を購入したのだ。
デビューからわずか4年で夢を叶え、人気絶頂だった彼は当時、テレビの音楽番組にも多く出演するようになり、まさに多忙を極めていた。
「一日3時間の睡眠が4週間続くこともあって、周囲のスタッフが次々と倒れていく状況でした。とにかく忙しった。」
当時、彼に対して黒澤明がこんな一言を放ったという。
「かやまぁ、テレビに殺されるなよ!」
テレビのイメージが強くなり過ぎると、もう役者として使えなくなる…黒澤は加山に釘を刺したのだ。
加山は当時のことをこんな風に振り返る。
「オヤジの上原謙にとっては“山の音”や“めし”など、成瀬巳喜男監督の作品が俳優人生の重要な位置を占めていたと思うんです。僕にとってのそれは、やはり黒澤監督の“椿三十郎”と“赤ひげ”でした。当時、ちょうど“赤ひげ”の撮影を終えたばかりだったのですが、それ以降、僕は監督の映画に呼ばれなくなりました。黒澤映画には、少なくともあと1本は出たかった…そうなれば僕の俳優人生も違ったものになっていたはず。」
黒澤は加山を使わなくなった。
名画『赤ひげ』に関するコメントとして、短い言葉を残している。
「加山を一人前にさせようと思って、しぼりにしぼってあそこまで言ったんです。あの時の加山はよかった。」
俳優としてジレンマを感じながらも、加山の多忙な日々は続いていた。
新作となるシングルのレコーディングが目前に迫っていたのだ。
それまで発表してきた歌は、いずれも他人からの提供曲だったが、彼は27歳を迎えたこの年から“弾厚作”のペンネームで自ら作曲を手掛けるようになる。
自作曲の第一弾となった4枚目のシングル「恋は紅いバラ/君が好きだから」が1965年の5月にリリースされる。
同曲はもともと英語詞の「DEDICATED」として加山が学生時代に作ったもので、1963年公開の映画『ハワイの若大将』で採用されていたという。
そのメロディーに岩谷時子が日本語詞を乗せた形で同年8月公開の映画『海の若大将』の主題歌としてリメイクされたのだ。
同作の製作をきっかけに加山は、作曲家・弾厚作として渡辺音楽出版に籍を置くこととなる。
そんな中、同出版社の親会社、渡辺プロダクションの社長・渡邊晋が、加山に“ムチャぶり”とも言えるリクエストをする。
「恋は紅いバラと同じような、もっといい曲を1週間以内に書いてくれ!」
そんな注文を受けて加山が書いた曲が、同年の12月に公開を予定していた映画『エレキの若大将』の主題歌として空前のヒットを記録した「君といつまでも」だった。
後に加山の代名詞となったこの曲は、かつて大阪の吹田市にあった毎日放送のラジオ第一スタジオでレコーディングされた。
美しいトリングスの音色が施された森岡賢一郎のアレンジ、そして岩谷時子が紡いだ珠玉の言葉(歌詞)をメロディーに乗せた瞬間、加山は思わず「幸せだなぁ」と口にしたという。
その台詞がそのまま間奏部分に採り入れられたというエピソードはファンの間でも有名だ。
間奏に台詞を入れる手法は、加山が敬愛していたエルヴィス・プレスリーを意識してのものだという。
1965年12月、映画『エレキの若大将』主題歌として発売された「君といつまでも」は350万枚の大ヒットを記録する。
翌1966年の日本レコード大賞の大本命とされていたが…結果は同曲に比べ売り上げ面で劣る橋幸夫の「霧氷」がグランプリを受賞し、加山の「君といつまでも」は特別賞に留まる。
明らかに売り上げ枚数も多かった「君といつまでも」が特別賞という枠に留まったのは何故だったのだろう?
寝る間もなく多忙を極める若大将の心の中に…黒澤監督の言葉が何度もこだましてしたのかもしれない。
「かやまぁ、テレビに殺されるなよ!」
<引用元・参考文献『若大将の履歴書』加山雄三(著)/日本経済新聞出版>