ロビー・ロバートソン。
ユダヤ人の父とインディアン母を持つ彼は、カナダで生まれたという。
1960年代に音楽仲間たちとロック歌手ロニー・ホーキンスのバックバンドで腕を磨き、その後レヴォン&ザ・ホークスを結成する。
1966年、彼らはボブ・ディランのワールドツアーでバックバンドを務めることとなる。
1968年に“ザ・バンド”と改名し、デビューアルバム『Music From Big Pink』(1968年)を発表する。
当時、ロビーは25歳だった。
1969年8月17日に、ザ・バンドでウッドストックコンサートに出演。
その月の末にはディランと共にワイト島フェスティバルに参加。
ロビーはこのワイト島出演の際にザ・ビートルズのジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターと親交を深めたと言われている。
同年9月、2ndアルバム『The Band』を発表。
そしてロビーが27歳を迎えた1970年の夏に3rdアルバム『Stage Fright』を発表。
ボブ・ディランのバッキンググループとして十分な実力をつけた彼らは、アメリカンミュージックの方向性に変化をもたらす重要な役割を果たしていた。
「その夏、僕と妻(ドミニク)の間に次女が生まれたんだ。当時、僕ら家族は地元カナダのモントリオールにあるドミニクの実家の近くのアパートで暮していた。僕は親として成長をするべく新たな階段に踏み出していたんだ。二人の娘の父親になると、自分でも気づいてなかった保護者的な側面が表れてくるものさ。そんな日々の中で、僕は音楽的にも“さらに新たなものを!”と模索していたんだ。」
ザ・バンドは留まることなく野心作『Cahoots』(1971年発表)の制作に取りかかる。
ニューオーリンズの音楽シーンを牽引してきたアラン・トゥーサンを招き、ホーンセクションを取り入れるが、この頃からメンバー間に摩擦が生じだして曲作りもスランプに陥る。
それでも彼らは積極的にステージに立ち、トップクラスのライブバンドとして成長を遂げてゆく。
27歳となり、二人の娘の父親となり、忙しく過ごしていた彼のもとに時代を象徴するような悲しい訃報が届く。
1970年10月のはじめ、作曲用スタジオの増築を考えていた彼はアルバート・グロスマン(ボブ・ディランのマネージャー)からアドバイスをもらうために電話をかけた。
受話器の向こうのアルバートの声はいつもと違い、とても沈んでいたという。
「彼は弱々しい声で僕にこう言ったんだ。“ジャニスが逝った。死んだんだ。どうしていいかわからない。信じられないくらいに悲しい。あんなに素晴らしいシンガー、最高の人間は他にいなかった…”」
生前ジャニスは、ときおりアルバート夫妻の家に泊まってプライベートな時間を過ごしていたのだ。
アルバート家で過ごすジャニスは、世間で噂されるイメージとはまったく違ったという。
ロビーはそのことを、ディランとのツアー中に何度も聞かされていた。
「彼女とはフェスティヴァル・エキスプレス・ツアーでも一緒になり、僕らは楽しい時間を共有したんだ。あの日の訃報は、息もできなくなるくらいショックだった。僕はほんの数週間前に、アルバート家のキッチンで料理を手伝う彼女の愛情に溢れた姿を見たばかりだった。それがなぜあんなことに…」
彼はその3週間程前に、古いギター仲間のジミ・ヘンドリックスがロンドンで死んだという報せを聞いていた。
「あの時の損失感は忘れられない。僕は悲しみを乗り越えられずにいた。そしてその一年前には、僕らの友人のブライアン・ジョーンズが命を落とした。不気味だったのは、ジャニスもジミもブライアンもみんな27歳で亡くなったってこと。僕も同じ歳だから当時27歳だった。そしてその翌年にはジム・モリスンが同じ27歳で亡くなった。彼らの死にはすべてドラッグが絡んでいた。それは当時ザ・バンドが置かれた状況を容赦なく照らし出すことにもなった。人生というものは儚いものだ…」
<引用元・参考文献『ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春』ロビー・ロバートソン (著), 奥田祐士 (翻訳)/ DU BOOKS>
【佐々木モトアキ プロフィール】
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【TAP the POP佐々木モトアキ執筆記事】
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