アメリカのロック史を語る上で欠かせない存在のひとつ、ザ・バンド。
1968年にリリースした1stアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』は、メンバーの卓越した演奏技術、そしてロックンロールとアメリカン・ルーツ・ミュージックを見事に融合させたサウンドが高く評価され、続く2ndアルバム『ザ・バンド』では全米アルバム・チャート2位を記録、瞬く間にアメリカを代表するバンドへと登りつめた。
彼らの存在とその完成された音楽は、今なお多くのミュージシャンから敬意を集め、多くの人たちに愛されている。
そのザ・バンドで、主にリード・ギターとソングライティングを担当していたのがロビー・ロバートソンだ。
1943年にカナダのトロントで生まれたロビーが、初めてロックンロールを聴いたのは1956年夏の終わり、13歳の頃だった。
アメリカではエルヴィス・プレスリーが「ハートブレイク・ホテル」「冷たくしないで」「ハウンド・ドッグ」など、次々と全米チャート1位に楽曲を送り込んでおり、すでにロックンロールが若者たちを熱狂させていた。
その波が少し遅れてカナダにも流れ込んできたのだ。
ラジオから流れてくる音楽はガラッと変わり、その展開の早さはロビーが「このロックンローラーたちは、先週までどこでなにをしていたのだろう?」と不思議に思うほどだった。
ロックンロールの洗礼を受けたとき、ロビーにとって幸運だったのは、7歳の頃からすでにギターを練習していたことだ。
それまでのアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち替えると、ロビーは腕のいい仲間たちを集めてバンドを結成するのだった。
そして1958年、運命の日が訪れる。
その日、ロビーのバンドはアメリカからやってきたロカビリーのロニー・ホーキンス&ザ・ホークスの前座として、ステージで演奏することになった。
プロのミュージシャンに負けじといいところを見せようとはりきってか、バンドはいつも以上にいい演奏ができたという手応えを感じた。
ところがロニー・ホーキンスとホークスのメンバーがステージに上がると、会場の雰囲気が一変する。
それまで雑談をしていたギャラリーたちがステージ前方へと押し寄せ、ホークスが暴走機関車のような荒々しくエネルギッシュな演奏を開始すると、皆が熱狂し始めた。
そのときの衝撃を、ロビーは自著でこのように書いている。
それはぼくが目撃した、最高に暴力的で、ダイナミックで、荒削りなロックンロールだった。しかもそこには中毒性があった。
エルヴィス・プレスリーが生まれた2日後に生まれたロニー・ホーキンス。
1952年に自身のバックバンド、ホークスを結成すると、地元のアーカンソー州を中心にしてツアーをするようになり、他のミュージシャンたちとしのぎを削りあいながら、腕を磨いていく。
しかし、エルヴィスのブレイクをきっかけにロックンロールが爆発的な人気となり、ジェリー・リー・ルイスやカール・パーキンスなど、同じ時代を生きてきたミュージシャンたちが次々と成功していくのを横目に、ロニーは中々チャンスを掴めずにいた。
そこへ知人のミュージシャンからカナダへ行ってみたらどうだと薦められ、ロビーの暮らすトロントへとやってきたのである。
ロックンロール全盛の時代に不遇だったロニーだが、才能あるミュージシャンを見抜く目、そして彼らを惹きつけるカリスマ性は本物だった。
ホークスには、のちにザ・バンドのドラムとなるリヴォン・ヘルムがいた。
そしてロビー・ロバートソンの才能も見逃さなかった。
ロニーはカナダという新天地でロビー・ロバートソン、数年後にはリック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソンといった若者を自身のバンドに加えた。
ロニー・ホーキンスのバックバンド、ホークスのメンバーとなった彼らたちが、ザ・バンドと名乗るようになるのは、それからしばらく先のことだ。
<引用元『ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春』ロビー・ロバートソン (著), 奥田祐士 (翻訳)/ DU BOOKS>