甲本ヒロトが音楽の道を進もうと思ったきっかけは、中学時代に聴いたセックス・ピストルズだった。
ピストルズを筆頭にロンドン・パンクのエッセンスは、のちに甲本が結成したザ・ブルーハーツやザ・ハイロウズといったバンドに受け継がれている。
しかし、甲本ははじめから音楽が好きだったというわけではなく、むしろ軽蔑すらしていたほうだったという。
人前に出てさ、一人前の男が、あんな髪の毛を伸ばして踊って歌うなんて最低じゃんって思ってた。僕、小学校低学年頃からそんな感じ。(『ロックンロールが降ってきた日』より)
小学校時代はぼーっとしているのが好きで、体育と音楽と給食はぼーっと出来ないから嫌いだったという。当時は周りからはボケサク、先生からはグズラと呼ばれ、クラスでも影の薄い少年だった。
そんな甲本の価値観を一変させる出来事が起きたのは、中学に入って間もなくのことである。
英語の授業でリスニング用のカセットテープを使うので、家にテープレコーダーを用意しておくように学校から言われた甲本は、親にラジカセを買い与えてもらった。
部屋でラジオを流していた甲本は、それまで体験したことがないほどの衝撃を受ける。
自分が音楽に感動するなんてことは想像できなかっった。でも、ラジオから流れてきたイントロ一発でもうやられた。涙が止まらないし、ギャーギャー叫びたいような気持ち、興奮を抑え切れないんですよ。理由はわからないんだけど、胸をかきむしったり。いちばん記憶にあるのは畳をかきむしってたこと。
意味がわからないから、自分の部屋の畳をかきむしりながらボロボロ泣いてたんですよ。(『14歳Ⅲ』より)
その日以来、食べ物を美味しいと思うようになり、学校を楽しいと思うようになり、自分の周りにあるものをきちんと認識することができるようになった。それはヘレン・ケラーさながらの大きな変化だった。
ところがもう一度同じ曲を聴きたいと思っても、その音楽がまたラジオで流れることはなかった。
それもそのはず、その曲は最新のヒット曲ではなく、たまたま流れた10年以上前のヒット曲だったからだ。
のちに判明したその曲は、マンフレッド・マンの「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」だった。
マンフレッド・マンは1960年代にイギリスで人気を博したバンドだ。
1962年の終わり、キーボード・プレイヤーのマンフレッド・マン(のちにこの名前がそのままバンド名となる)と、ドラムのマイク・ハグは、マン・ハグ・ブルース・ブラザーズというリズム&ブルースのバンドを結成した。
ポール・ジョーンズのソウルフルなボーカルとマンフレッドのキーボードなどで独特のサウンドを確立した彼らは、ブルースが人気を集めていた当時のロンドンで評判を集め、1963年にレコード会社と契約する。
そのときにこれからはビートルズのような短い名前じゃないと売れないと指摘され、マンフレッド・マンに改名した。
バンドは「ホワイ・シュド・ウィ・ノット」でデビューを果たしたが、ジャズのエッセンスを多分に含んだインストゥルメンタル曲だったため、ヒットには至らなかった。
しかし演奏技術の高さとレコード会社のプロモーションが実を結んでか、人気テレビ番組「レディ・ステディ・ゴー」から、新しいテーマ曲を作って欲しいという依頼が舞い込む。
そうして書かれた「5-4-3-2-1」は、その名の通り「ファイブ・フォー・スリー・ツー・ワン」と何度もカウントダウンを繰り返すシンプルな曲だ。
これが全英5位のヒットとなり、ここから彼らは大好きなリズム&ブルースやジャズだけでなく、シンプルでキャッチーなサウンドも押し出していく。
そして1964年に全英と全米で、ともに1位の大ヒットとなったのが「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」だった。
オリジナルは同年にアメリカのR&Bガールズ・グループ、エキサイターズが歌ったもので、作詞作曲を手掛けたのはロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」などで知られるソングライター、ジェフ・バリーとエリー・グレニッチだ。
「ピーピピーピピピ、ピーピーピー♪」という単純なイントロから始まり、オンビート気味のリズムを刻みながら2つのコードを行き来し、およそ3つから4つの音だけで構成されたメロディが繰り返される。
複雑で頭のよさそうな音楽とは無縁のシンプルさが、甲本の心を掴んだのだ。
だって0点でいいんだもん。運動もできなくていいんだ。喧嘩も弱くていいんだ。性格も悪くていいんだ。
「ピーピピーピピピ、ピーピーピー♪」には人として何か超えなければならないハードルが何もないんだよ。それがさ、公共の電波に乗っかって堂々と流れてくるんだぜ。その痛快さたるや、たまらないよ。
その音が自分に与えた衝撃は、それはもう地球が割れるような感じだよ。
(『ロックンロールが降ってきた日』より)
シンプルなメロディとリズムだけで人の心を動かすことはできるし、そこには感情を爆発させる圧倒的なパワーがある。そのことを甲本は身をもって体験した。
この音楽体験を指標とした甲本が、のちにロンドン・パンクに惹かれたのは必然だったといえよう。