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Extra便

歴代1位となる視聴率81.4%を記録した紅白歌合戦で歌われた「見上げてごらん夜の星を」

2016.12.29

ツイスト・ブームを頂点にカヴァー・ポップスが人気のピークを迎えた1961年から63年にかけて、東京オリンピックを間近にした日本では意外にも、社会の趨勢とは逆の復古調で時代がかった流行歌が人気を集めていた。

浅草で流しの演歌師として苦労を重ねたこまどり姉妹が、61年の夏に三味線を手にして着物姿でデビューしたが、「ソーラン渡り鳥」が最初のヒットとなった。
その年の暮れから62年にかけては浪曲師から転向した村田英雄の歌う「王将」が大ヒット、レコード産業が始まって以来最高の100万枚を超える売上げを記録した。

そこに扇を片手に男装の袴姿というファッションで畠山みどりが登場、「恋は神代の昔から」のヒットに続いて、浪花節調の根性路線による「出世街道」で人気が沸騰する。

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急速に衰退していくカヴァー・ポップスに代わって、若者たちの間には青春歌謡というジャンルが抬頭してきた。
先陣を切ったのはロカビリー出身の北原謙二が歌う「若いふたり」だ。

「若いふたり」
作詞:杉本夜詩美 作曲:遠藤実

君には君の 夢があり
僕には僕の 夢がある
ふたりの夢を よせあえば
そよ風甘い 春の丘
若い若い 若いふたりの
ことだもの


若さと夢を礼賛する詞と日本的なメロディーが、都会的なポップスについていけない若者たちに支持された。

その流れを決定づけたのが日活青春映画のスターだった吉永小百合と、股旅歌謡でデビューした橋幸夫がデュエットした「いつでも夢を」である。
これが1962年の第4回レコード大賞を受賞した。

「いつでも夢を」
作詞:佐伯 孝夫 作曲:吉田 正

星よりひそかに 雨よりやさしく
あの娘はいつも 歌ってる
声が聞こえる 淋しい胸に
涙に濡れた この胸に
言っているいる お持ちなさいな
いつでも夢を いつでも夢を


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ベテラン作詞家と作曲家が書いた若者向けの歌のヒットから、青春歌謡のブームが一気に巻き起こっていく。
そこに登場して人気者になったのが、黒い学生服姿で「高校三年生」を歌う舟木一夫だった。
日本の音楽史研究の先駆者だった故・黒沢進は、1963年の音楽状況についてこう述べている。

「上を向いて歩こう」が「スキヤキ」という英題で全米一位となり、我国の音楽もいよいよ欧米の水準に近づいたかのように見えた一九六三年だが、「スキヤキ」が米チャートを賑わせていた頃、皮肉なことに日本で最も流行っていた歌は舟木一夫のドメスティックな歌謡曲「高校三年生」だった。舟木に代表される青春歌謡は、音楽的には藤山一郎や東海林太郎の時代への回帰とも思えるような、洋楽との接点が見出しにくいものだったが、日本の若者たちの生活を反映した詞もウケて、カヴァー・ポップスよりもはるかに売れることになるのである。そして、日本でのポップス人気は急速に衰え、テレビのポップス番組の多くは九月期で終了、ジャズ喫茶も観客減から軒並み経営難にあえぎ、中には倒産する店も出たりしたのだった。
(黒沢進『黒沢進著作集』シンコー・ミュージック)


そんななかでロカビリー出身の坂本九は、22歳にして絶頂期を迎えていた。
健全性にあふれる笑顔と魅力が政治家や官僚にまで好ましく受け入れられ、正月早々から池田勇人首相による「芸術文化関係者懇談会」に招かれた。
東京オリンピック開催という国家的なプロジェクトに向けて、坂本九は広報のため親善大使になってほしいと政府から協力を依頼される。

目黒の迎賓館で6月2日に開かれた天皇家と皇族による皇后陛下還暦祝いの席にも呼ばれて、坂本九は両陛下の前で「上を向いて歩こう」を歌っている。
本来ならば初の御前公演といっても良い出来事であったが、内輪の場だったことから当時は公表されなかった。

ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』(作・構成:永六輔 音楽:いずみたく)に主演したのは、6月18日から20日までの3日間だった。
これは1960年に大阪の労音で上演された作品だったが、それを観ていた坂本九が自ら上演したいと事務所に願い出ていたものだ。

その心意気に賛同したマネージャーの曲直瀬信子は永六輔に再演を申し出ると、自分がマネージメントしている九重佑三子、ダニー飯田とパラダイス・キング、ジェリー藤尾、渡辺トモ子など、マナセ・プロダクションの人気スターをすべてノーギャラで出演させることで、実現に向けて全面的に協力した。

東北地方から集団就職で上京して働きながら定時制高校に通う若者たちが、経済的にも時間的にも苦しい生活の中で、前向きにに生きる姿を描いたこの作品は、坂本九の芸域をいっそう広げることになった。
そしてテーマソングだった「見上げてごらん夜の星を」が初めてレコード化されて、音楽史に残るスタンダード・ソングが誕生する。

すかさず松竹では坂本九が主演する同名の映画が作られて公開された。

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と、ここまではすべてが順調すぎるほど順調だったのに、前途には思いもよらない「君が代事件」が待っていた。

8月中旬に「スキヤキ」が大ヒット中のアメリカを訪問した坂本九は、テレビ出演の他にオリンピック親善大使としても公式行事に参加して、三泊六日という超強行日程を終えて帰国した。

9月18日、東京体育館では日本の海老原博幸がタイのポーン・キングピッチに挑戦する、世界フライ級タイトルマッチが行われることになっていた。
日本中が注目していたこの試合のセレモニーで、「君が代」を独唱したのが坂本九だった。

ところが一部の人が本番後、日本の国家を歌うにはふさわしくない歌手だと口にした。

緊張した面持ちの坂本九はその夜、リングの中央に立つと両手を後ろに組むと目を閉じて「君が代」を歌った。
その姿勢が「日本男児らしくない」と非難されたのである。
それはウィーン少年合唱団におけるステージ・マナーをお手本にしたものだった。
 
きちんと声を出して歌っていなかった、歌唱力がないのではという声が、マスコミにも取りあげられた。
厳粛に歌わねばならないという意識が強すぎたせいか、確かに坂本九の声には伸びがなかったかもしれない。
低音が殆ど聴き取れなかったのはキーが合っていないせいもあっただろう。

だがそうしたことへの配慮はなく、世間の僻みと妬みがマスコミによって増幅されていった。
そのあたりの事情について、兄の坂本照明は著書「星空の旅人 坂本九」(文星出版)でこう述べている。

批判の矢面に立たされるという経験は、九にとって始めてのこと。それだけに大きなショックを受けたようでした。テレビ中継が終わった後の取材に対しても、九はただただ謝るしかありません。
しかし、九を弁護してくれる人もいました。坂本九の『君が代』はあれでいいのではないかと。スターになれば「見えない敵」も出てくるし、九がロカビリー出身であることに対する偏見もあるのではないかと。
事実、ロカビリー歌手は普通の歌手とは違うと、テレビ出演を断られるという時期もありました。そんな中で、九は最初にテレビに出演したロカビリー出身の歌手でもあったのです。
この事件は、その後、『君が代』をきちんと歌えない人間は日本国民ではないのかという論争にまで広がりました。九はそのショックの中で、アイドルからの脱皮のときがきているのではないかと考え始めていたのです。


その年の大晦日、第14回NHK紅白歌合戦は翌年に行われる国家的イベントの東京オリンピックを控えて、オープニングでは渥美清が聖火ランナーに扮して、オリンピック開会式を模すという演出で始まり、歴代1位となる81・4%という視聴率を上げた。
 
レコード大賞に輝いた「こんにちは赤ちゃん」を梓みちよが緊張の中ではつらつと歌い終えると、そこに永六輔が乳母車をひいて登場してくる。
乳母車の中に乗っている赤ちゃんを演じるのは渥美清で、「こんにちは紅(あか)さん、あなたの勝ちよ」と歌うという仕掛けだった。
そんなコントに会場もお茶の間も大いに沸いて、その夜はすっかりお祭りムード一色となった。

ところが坂本九だけは新人歌手のように、緊迫感をいっぱいに漂わせて登場してきた。
舞台上手から出てきて深々とおじぎをすると、センターの位置にやって来てると、最初から最後まで目を瞑ったまま「見上げてごらん夜の星を」を歌い切った。

そしてトレードマークの笑顔を一度もみせることなく、坂本九はそのまま足早に退場したのだった。
どこにでもいる少年少女の代表で笑顔の「九ちゃん」から、青年期を迎えて正統派の歌手への道を選んだ結果が、その夜のパフォーマンスだった。


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