本命と見られていた三橋美智也の「東京五輪音頭」が大きく出遅れたことで、一気に台頭してきたテイチクの三波春夫のヴァージョンが、最初にヒットし始めた。
そのことによって若者たちに人気があった東芝の坂本九と、一騎打ちの競争になると思われたのに、実際にはそうならなかった。
それは誰にも予測できなかった運命的な出来事が、いくつも重なり合った結果である。
オリンピックに向けてのキックオフイベントとなった6月23日、「東京五輪音頭」のキャンペーンが始まったとき、それとまったく同じタイミングで「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI(スキヤキ)」のタイトルで、アメリカで大ヒットしていたのだ。
そしてアメリカのキャピトル・レコードの会長が来日し、ぜひとも訪米してほしいという強い要望があったことから、坂本九は8月13日に渡米してプロモーションすることが決まった。
しかも「上を向いて歩こう」が国内でもリバイバル・ヒットしたことで、東芝も坂本九サイドも「東亰五輪音頭」のプロモーションに時間を割くことができなくなってしまったのである。
さらに三波春夫が「並々ならぬ気合を入れていることを感じ取ったテイチクは、全力でプロモーションを行って、年末のNHK紅白歌合戦で披露しようという目標を定めた。
こうした積極策を取り入れたことで三波春夫の「東京五輪音頭」はA面に昇格し、誰もライバルがいなくなったことで売上も集中し、爆発的なヒットに結びついていった。
あくまで推察なのだがこれらの事情が絡み合ってプラスに作用したことで、三波春夫の圧勝となったのではなかろうか。
NHK紅白歌合戦における白組のトリの座をめぐっては、君臨していた三橋美智也に徐々に迫りつつあった。
そしてこの年に「東京五輪音頭」の共作に勝利したことで、三波春夫は国民的な歌手という存在になっていく。
1957年/第8回 三橋美智也「リンゴ花咲く故郷へ」
1958年/第9回 三橋美智也「おさらば東京」
1959年/第10回 春日八郎「東亰の蟻」
1960年/第11回 三橋美智也「達者でナ」
1961年/第12回 三波春夫「文左たから船」
1962年/第13回 三橋美智也「星屑の町」
1963年/第14回 三波春夫「佐渡の恋唄」
1964年/第14回 三波春夫「俵星玄蕃」
その年の大晦日、NHK紅白歌合戦ではオープニングからエンディングまで、翌年に控える東京オリンピックを意識した演出に徹した。
オープニングでは日比谷公園から宝塚劇場に走ってきた渥美清が聖火ランナーとして登場し、オリンピックの開会式を模したセレモニーで幕を開けた。
そして81.4%という、史上最高視聴率を記録したのである。
しかもエンディングでは例年の決まりごとだった『蛍の光』ではなく、出演者全員によって「東京五輪音頭」が合唱された。
『蛍の光』が歌われなかったのはこの年だけの特例だったが、そのときに合唱の中心にいたのは白組のトリを務めた三波春夫であった。
ちなみに「東京五輪音頭」で競いあった三橋美智也、坂本九、北島三郎、畠山みどりも同じ舞台にいた。
翌年のオリンピック開催年にキングは三橋美智也の「東京五輪音頭」をA面として、シングルを再発売した。
ビクターも橋幸夫ヴァージョンの「東京五輪音頭」を新たに制作して発売したが、三波春夫の楽曲としてすっかり定着してしまったために、すべては後の祭りに終わってしまった。
東亰オリンピックが成功した1964年の紅白歌合戦でも、三波春夫は「東京五輪音頭」で白組のトリを飾った。
そして三橋美智也は1966年の「また来るよ」を最後に、しばらく紅白歌合戦に出演できなくなってしまうのである。