前回の記事から、三波春夫の「東京五輪音頭」がなぜ大ヒットしたのか、その要因はおおむね理解できただろう。
だが結果的に敗者となった三橋美智也の極端な不振に関しては、それほど単純な話ではなかったのかもしれないと思い始めた。
きっかけはディスコグラフィーを見ていて気付いた見慣れないレコード番号への疑問と、翌年の春になってからジャケットをカラーにして、あたためてA面で再発売されたことの不自然さにあった。
そこで国会図書館で当時の目録などを調査してみたが、「なにかがおかしい」という違和感が増すばかりだった。
なにしろキングレコードは若手オペラ歌手の友竹正則が唄う「海をこえて友よきたれ」がA面の扱いで、三橋美智也の「東京五輪音頭」はB面だったのである。
キングレコードを背負って立つばかりか、歌謡界の看板スター歌手だったににしてはずいぶんと地味な扱いで、しかも古色蒼然としたイメージのジャケットからは、各社が競作しているという覇気が感じられない。
しかもレコード番号をみると、流行歌のヒット曲を制作している文芸部からではなく、ラジオ体操や童謡、唱歌といった教育用レコードを主に扱うセクションから発売されていたことがわかった。
キングは「東京五輪音頭」については古賀政男のお墨付きがあったので、三橋美智也の独走だろうと楽観視していたらしい。
ところが、最初の時点で大きく出遅れたことから、ジャケットをカラーにし、文字を横書きにしたデザインに差し替えている。
だが、ここでも「海をこえて友よきたれ」がA面のままであった。
その10ヶ月後、1964年の4月になってようやく「東京五輪音頭」がA面になったレコードが発売された
ここでは「おんな船頭唄」や「リンゴ村から」、「哀愁列車」、「おさらば東京」などのヒット曲を制作してきた、本来の文芸部のレコード番号が使われている。
ジャケットも”音頭もの”らしく、祭りを思わせるカラー写真を使用し、全体の雰囲気が明るいタッチになった。
しかし、そのときにはすでに三波春夫との勝負付けは終わっていたのである。
そもそも1963(昭和38)年6月23日のオリンピック・デーで、三橋美智也によって初めて披露された「東京五輪音頭」を、レコードのA面として発売したのは東芝の坂本九だけだった。
コロムビアの北島三郎・畠山みどり、ポリドールの大木伸夫・司富子、ビクターのつくば兄弟・神楽坂浮子、そして本命視されていたキングの三橋美智也のレコードでさえも、「海をこえて友よきたれ」がA面になっていたのである。
またテイチクの三波春夫も、当初は「東亰五輪おどり」がA面の扱いだった。
そこにはレコード会社間における様々な思惑や事情があり、それが反応が良かった三波春夫のヴァージョンをヒットさせる要因になったのだろう。
「海をこえて友よきたれ」もNHKが制定したオリンピックのための愛唱歌で、「東京五輪音頭」と同じように公式ソングになった。
作曲したのはキング専属の作曲家だった飯田三郎で、古賀政男と同様に専属の縛りをなくして各社に開放された。
「海をこえて友よきたれ」をA面にしたコロムビアの場合、その年の紅白歌合戦にも選ばれた青春歌手の高石かつ枝が、藤原良とデュエットしている。
北島三郎と畠山みどりが唄った「東京五輪音頭」では、紅白歌合戦のトリを務める三橋美智也や、人気絶頂だった坂本九には対抗できないとの判断だったのかもしれない。
それよりも若者に人気があった高石かつ枝の「海をこえて友よきたれ」の方に、ヒットの可能性を見ていたようで、明らかにプロモーションの力が入っていたという印象があった。
それにしても残念だったのは、三橋美智也自身のコンディションが良くなかったことだろう。
というのも前年の後半から喉の具合が芳しくなく、最大の魅力だった豊かな美声と艶のある高音が、しばしば不安定になってきていたのだ。
そうした異変を察知して、歌手生命の危機に瀕しているのではないかとまで心配する新聞記者がいたほどだった。
三橋美智也もキングもその異変については危惧していて、それまでのような過密スケジュールを避けて、できるだけ喉を休ませる方向に切り替えていった。
そのためにキャンペーン・ソングで盛り上げたいNHKの歌謡番組に出演するタイミングを失い、集中的にプロモーションしていた三波春夫との差が一気に開いてしまったのである。
(以下、④に続く)