季節(いま)の歌

Lullaby of the Leaves(木の葉の子守歌)〜アメリカのポピュラー音楽の礎を築いた“ティン・パン・アレー” から生まれた名曲

2017.11.19

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何万という星が見下ろす南部の空の下で
僕をゆりかごに眠らせて歌っておくれ
木の葉よ…子守唄を歌っておくれ

天の青さで僕を覆い
ひとつ、ふたつ夢を見させておくれ
木の葉よ…子守唄を歌っておくれ

風に吹かれながら僕は深呼吸をする
そして木々を通り抜ける風の歌を聴いている
“Ooh-ooh, ooh-ooh, ooh-ooh”
岸辺を撫でる松林のメロディーよ
いつも聴いていたおなじみの歌さ
“Ooh-ooh, ooh-ooh, ooh-ooh”
そう、これこそが僕の故郷…南部なんだ

これは僕の魂が感じていることか
終着点に辿り着いたということか
木の葉よ…子守唄を歌っておくれ
そして僕を眠らせておくれ


この「Lullaby of the Leaves(木の葉の子守歌)」は、今から85年前の1932年にジョー・ヤングの作詞、そして女性作曲家のバニーズ・ペトカーの作曲によって作られた楽曲である。
バリトンサックスの名手ジェリー・マリガンのレパートリーとしてジャズファンから愛され、1962年にベンチャーズがリバイバルヒットさせたことで日本人にも広く知られるようになった曲だ。
もともとは19世紀末から20世紀前半のアメリカのポピュラー音楽の礎を築いた“ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)”が楽譜出版したものだった。
当時、アメリカのポピュラー音楽の多くがミュージカルや映画のために製作されていた中、この楽曲は(珍しく)商業的な絡みもなくラジオ番組で演奏されたのが初出だったという。



このメロディーを作曲したバニーズ・ペトカーと言えば、シカゴ出身で主に1930年代に活躍した音楽家。
彼女は5歳からシカゴのボードビル(流行歌入りの軽喜劇)で歌い、98年間の生涯をショウビジネスに捧げた人だった。
1931年、ニューヨークのジャズバーでピアノを弾いていたところをアーヴィン・バーリンに見出される。
それをきっかけにビング・クロスビーの曲を書いたところ、立て続けにヒットを記録し、一躍売れっ子作曲家となる。
彼女はいつしか“ティン・パン・アレーの女王”と呼ばれるようなり、多くのミュージカルや映画作品に関わってゆく。
アメリカのポピュラー史に必ず登場する“ティン・パン・アレー”とは一体なにを指す言葉なのだろう?
レコードが一般に広く浸透する前の時代、歌は楽譜の形で流通し、アメリカでは大衆音楽の楽譜が飛ぶように売れたという。
流行歌の出版競争は音楽産業を一気に活性化させ、その後のアメリカ大衆音楽の基盤を築くこととなる。
ニューヨークのブロードウェイと五番街にはさまれた通りの一帯は、19世紀末から楽譜(シートミュージック)を売る店が軒を並べ、ポピュラー音楽の出版社が集まっていた。
人々はその一帯を“ティ ン・パン・アレー”と呼び、後にアメリカの大衆音楽業界の通称として使われるようになった。
そこで楽曲の制作から出版・流通までを掌握していたのが、東欧にルーツをもつユダヤ系移民だった。
ユダヤ系移民はニューヨーク経済の中に上手く入り込み、エンタテインメント舞台の音楽や他の移民たちの民族系音楽を生産して富を得ることとなる。
彼らは特にアフリカ系アメリカ人の音楽を巧みに取り入れた。
黒人音楽の要素を白人向けに料理して次々にヒット曲を生産し、結果的に黒人音楽にも市民権をもたらしたのだ。
こうしてユダヤ系移民は、異文化混交の新時代カルチャーを、自分たちの手で構築していったのだ。
ティン・パン・アレーの隆盛は、1920 年代の“ジャズ・エイジ”とも重なる。
当時、ジャズは白人たちの盛り場の世俗音楽を指すもので、おもにボールルーム(舞踏会場)でのダンスの伴奏音楽だった。
この時代はまだ「芸術音楽・高尚音楽」と「世俗音楽・大衆音楽」の溝が大きく、正規の音楽教育と楽器演奏訓練を受けたものは前者に進む。
卑俗とされた大衆音楽に関わるのは、芸術音楽からこぼれ落ちた者と、新たにヨーロッ パからアメリカにやってきた移民たちだった。
そしてニューヨークの大衆文化に可能性を求めた移民たちの中でも、特に多数を占めていたのはユダヤ系移民(二世を含む)であり、流行歌の楽譜出版から本格的なミュージカル音楽産業へと進化を遂げていくティン・パン・アレーは、彼らによって動かされていたのだ。
19世紀末(1890年代)のアメリカは、ピアノ、バンジョー、ギターなどが大量生産できるようになり、これらの楽器(特にピアノ)が中流家庭に急速に普及するようになる。
子供の音楽教育がブームとなり、音楽産業のマーケットが拡大すると共に、アメリカンポピュラー音楽の作曲家を生み出す環境が、この時出来上がったと言える。
まだレコードがまだなかったこの時代の流行歌は、簡単なピアノアレンジがほどこされた“楽譜(シートミュージック)”として売られ、全米の家庭に浸透していった。
当時、曲のヒットの目安は、その楽譜の売り上げで計られていたのだ。
作曲家をかかえて曲の反応を見たり、楽譜を出版しプロモートするには、ブロードウェイの近くで全米のエンターテイメントの中心地であるニューヨークが最適な場所だった。
その一帯では毎日たくさんの店から一日中ピアノの音が響きわたっていて、まるで鍋や釡でも叩いているような賑やかな状態だったことから、その音を擬音化して、いつしか“ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)”と呼ばれるようになったというのだ。
20世紀前半のティン・パン・アレーは、数百曲の楽譜のミリオンセラーを出し、楽譜(シートミュージック)産業の勢いは頂点をきわめる。
ビルボード誌が毎週楽譜のベストセラーを発表するようになったのは1913年のこと。
アメリカの初期のポピュラー音楽はティン・パン・アレーから生まれたと言っても過言ではないだろう。

<参考文献『スタンダード・ヴォーカル名曲徹底ガイド下巻』音楽出版社>







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