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「僕たちは突然ビートルズになった」とブライアン・メイが振り返ったクイーンの初来日

2024.02.10

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1975年4月17日、初めて日本の地を踏んだクイーンを待っていたのは、一目だけでも見たいと空港に集まった1200人ものファンだった。

イギリスでは人気バンドの仲間入りを果たしていたクイーンだが、この熱烈な歓迎は予想外で驚いたという。
正面ロビーから出るのは無理だとプロモーターは判断し、空港側の協力もあって彼らは裏口から出ることとなった。

そのときの状況をブライアン・メイはこう説明している。

「そこは金切り声を上げる小柄な女の子たちでいっぱいになっていた。
ボディーガードの集団が出迎えてくれたんだけれど、その子たちの頭の上を引きずるようにして僕たちを連れださなくちゃならなかったんだ。
髪の毛を引っこ抜かれたし、僕はサンダルを片方なくした。
怖いのと面白いのと、半々だったよ」


別のインタビューでブライアンは「僕たちは突然ビートルズになった」と振り返っている。

日本におけるクイーンの爆発的な人気の一端を担ったのは、音楽雑誌のミュージック・ライフだった。

1966年のビートルズ初来日に先駆けてロンドンで独占取材を刊行し、来日時やその後の北米ツアー密着取材で名を上げた同誌は、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルといった人気トップのバンドと同じ扱いで、大々的な特集を組んでクイーンのファンを増やした。

その効果もあって、誌面上で行われた1974年度の人気投票では『クイーンⅡ』が最優秀アルバム賞を獲得した。
実際にレコードの売り上げでも、ディープ・パープルを抜いていたという。

ツアー行程は東京、愛知、兵庫、福岡、岡山、静岡と全国各地を回りながらの8公演、その規模は来日ミュージシャンの中でも最大級のものだった。

ところが初日となった19日の武道館で、コンサートが始まるとアリーナにいたファンがステージ前に殺到するという事態が発生した。
当時のコンサートは座って観るのが通例だったが、熱狂的なファンにそんな決まりは通用しなかった。

あまりの興奮に失神するファンまで現れたことから、フレディ・マーキュリーが観客の身を案じて、3曲目の「父より子へ」が終わると観客をなだめて椅子に座るように促すという場面もあったものの、コンサートは終始悲鳴に包まれたエキサイティングなステージとなった。

その後も行く先々でクイーンは熱烈な歓迎を受け、ツアーは大成功に終わった。
ブライアンによれば、メンバーは日本を離れるのがなごり惜しかったという。

「手紙を添えてサンダルを送り返してくれた人までいた。
“私たちが空港で大変な目にあわせてしまって本当にごめんなさい”と書いてあった。
僕たちは感動したね。みんなで泣く泣く日本を離れたよ」


また、フレディ・マーキュリーはこのように振り返っている。

「日本にいた時はとてもエキサイトしたけれど、多分60年代のビートルズの全盛期も同じような雰囲気だったんじゃないかと思うよ」


ただし日本における人気の高さに喜んだ一方で、ブライアンは「ロック・バンドじゃなくてティーン・アイドル」という受け取られ方に困惑もあったという。

「――この考えは簡単には受け入れられなかった。僕たちはミュージシャンだったから。でも楽しかったのは確かだよ」


しかしクイーンにとって日本での華々しい成功は、大きな追い風となっていく。
ここでさらなる自信をつけた彼らは、イギリスに戻ると歴史的名盤『オペラ座の夜』を完成させ、世界的なブレイクを果たすのである。

(このコラムは2015年12月8日に公開されました)


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【参考文献】
「クイーン 果てしなき伝説」ジャッキー・カン&ジム・ジェンキンス 著 東郷かおる子 訳(扶桑社)
「クイーン 華麗なる世界」フィル・サトクリフ 著 川村まゆみ 佐々木知恵 共訳(シンコーミュージック・エンタテイメント)
「ミュージック・ライフが見たクイーン」(シンコーミュージック・エンタテイメント)

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