「世界が見たことのないような最大のロックフェスティバル」と謳われたロック・イン・リオ。その第1回が開催されたのは、1985年1月のことだ。
10日間という長期間に渡って開催され、のべ130万を動員したこのフェスは、まさに規格外のスケールだった。出演アーティストもロッド・スチュワート、アイアン・メイデン、オジー・オズボーン、AC/DC、そしてクイーンなど豪華な顔ぶれが揃った。
この頃のクイーンは、世界的に見れば人気に陰りが出ていた。メンバーのソロ活動が目立つ一方で、バンド内での不仲説も囁かれ、解散の噂も絶えなかった。
実際にフレディも「クイーンは行けるところまで行った、もう建設的なことも創造的なことも何も残されていない、とみんなが全員一致で合意する時がいつか来ると思う」と発言している。
ところが、南米での人気は依然として絶大だった。1982年に南米ツアーを成功させてからというものの、クイーンの人気は留まるところを知らず、『オペラ座の夜』収録の「ラヴ・オヴ・マイ・ライフ」はチャートで1位を獲得。1984年にリリースした「ブレイク・フリー」は、反独裁のテーマソングとして浸透していた。
付け加えると、フレディの短髪に髭という風貌が南米では典型的な美男というのも、人気を支える要因の1つだった。
ロック・イン・リオの初日となる1月11日の深夜2時。予定より2時間遅れでクイーンがステージに上がると、待ちわびたおよそ25万人の大観衆(これは当時の有料入場者数世界一)から聞いたこともないほどの大歓声が巻き起こる。
フレディが手を上げれば会場は熱狂し、手を下ろせば静かになる。ブラジルの情熱的な国民性がステージと一体になり、会場はかつてないほどの熱気に包まれた。
ところがアンコールの「ブレイク・フリー」で、予想だにしない事態が起きた。ステージに戻ってきたフレディは女装をしていたのだが、演奏中に缶や石といったゴミが、舞台のほうに向けて投げ込まれたのだ。フレディは困惑と怒りを露わにした。
後日、このことがニュースで報道され、「反独裁のテーマソングにもなっている『ブレイク・フリー』を女装した姿で歌われたくなかったのでは?」と推測された。
フレディ自身もインタビューでその気持ちを伝えている。
「なんで女装したことにあれほどの反応があったのか僕には分からないよ。この街にだって異性の服を着ている人はたくさんいる。多くの人にとってそれは自然なことになりつつあるというのに」
ところが、事実は全く違った。ステージの位置が高過ぎたがゆえに、最前列にいた観客はステージ上を見ることができず、コンサート中に警備員との衝突が続いていた。
そこへ大ヒット曲の「ブレイク・フリー」とともに、女装したフレディの登場である。最前列にいた観客が何とかしてひと目でも見ようと、肩車をしたり柵を登ろうとしたりしていると、警備員が次々と押し寄せてきた。それに怒ったファンが、警備員に向けてものを投げつけて抗議したのだった。
とはいえ、ものが投げられたワンシーンを除けばコンサートは大成功で、1週間後の18日には再びロック・イン・リオのステージに上がり、騒動の影響を感じさせないほどに大観衆を熱狂させたのだった。
「彼らは最高のオーディエンスだし感情の表し方が大好きだよ。ときおりエキサイティングすぎるけど、そのときは鞭をふるってコントロールしてみせるさ」
ロック・イン・リオで弾みをつけたクイーンは、その年の夏にライブ・エイドに出演し、全世界の注目を集めることになる。(クイーン~ロック史に輝く起死回生のパフォーマンス)
参考文献:『フレディ・マーキュリー~孤独な道化~』レスリー・アン・ジョーンズ著/岩木貴子訳(ヤマハミュージックメディア)
「Rock in Rio」
Rock In Rio, Rio De Janerio 1985
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