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フレディ・マーキュリーの27歳~わずか半年で無名からロックスターへ

2016.09.03

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1973年9月5日、フレディ・マーキュリーが27歳の誕生日を迎えたのは、クイーンがファースト・アルバム『戦慄の王女』をリリースから2ヶ月が過ぎた頃だった。

アルバムにはドラマチックな展開やハイトーンなシャウトといったクイーンの特徴的なサウンドが現れていたが、批評家から酷評されてチャートインすることすら叶わなかった。
この頃のクイーンはまだほとんど無名で、数多くある野心的なバンドのひとつに過ぎなかった。

しかしアメリカでは83位ながらも、アルバム・チャートで100位入りを果たすことができた。
ドラムのロジャー・テイラーによれば、それが最初の兆候だったという。

10月からはデヴィッド・ボウイから提供された「すべての若き野郎ども」がヒットして人気を集めていたバンド、モット・ザ・フープルのツアーで前座を務めることになった。
批評家からは酷評された彼らの音楽だったが、ライブを観に来た観客の反応はとてもよく、回を重ねるごとにファンは増加、ついにはモット・ザ・フープのツアーにもかかわらず、観客の半分がクイーンを目当てに観に来るほどになった。

そんな中、同じプロダクションのデヴィッド・ボウイと仕事をしていた写真家のミック・ロックを紹介されたことから、バンドのビジュアル・イメージを固めるための写真撮影が行われた。

queen_mickrock

上半身裸で化粧をした男4人の写真はまたしても批評家から酷評を集めることになったが、これによってクイーンのイメージは確立したのだ。

ツアーで各地を回る中でクイーンのパフォーマンスは洗練されていくとともに、みるみるファンを増やしていき、翌年2月には人気テレビ番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』への出演を果たす。



そして3月8日には満を持してセカンド・アルバム『クイーンⅡ』をリリース、前作以上に壮大なスケールで構成もより複雑かつダイナミックに展開していく内容だった。

レコードのA面とB面、つまり表と裏でブライアン・メイ作曲の“ホワイト・サイド”と、フレディ・マーキュリー作曲の“ブラック・サイド”に分かれていた。
そしてフレディの世界は、人喰い鬼の戦いを描いた「オウガ・バトル」で幕を開ける。

「『オウガ・バトル』はもの凄く……ヘヴィなんだ。僕の言ってるのはいわゆるヘヴィ・メタル的な意味合いでのヘヴィじゃなくて……とにかくめちゃめちゃヘヴィなんだよ」




同じ3月にはクイーンにとって初の単独ツアーが始まり、3月31日には伝統あるレインボー・シアターでのコンサートに出演、熱気あふれるバンドの演奏とともにフレディのパフォーマンスは輝きを放ち、この大舞台を見事に成功させるのだった。



わずか半年で無名だったバンドから、もっとも注目を集めるバンドとなったクイーンだったが、そのことについてフレディはさほど動揺しなかったという。

「ぼくたちはいつでもトップグループだと思っていたからね」


その一方で多忙な日々は肉体的にも精神的にもかなりのプレッシャーで、各メンバーは相当に参っていたようだ。

「レインボーでのコンサートが終わるまでは、毎晩のようにタチの悪い悪夢を見ていたよ。
休日にホテルで見た夢では、バルコニーに出たらすべてが崩れ落ちて、気づいたら歩道の上で瓦礫の山に埋もれてたんだ。
目覚めたときは、恐ろしくて本当に固まってしまったよ」


それは、バンドの人気がまだ完全なものではなく、薄氷の上に立たされているようなものだという不安の現れだったのかもしれない。

そんな悪夢を払拭するためにクイーンは休むことなく、モット・ザ・フープルとともに今度はアメリカ・ツアーに出る。
もっとも、このときはブライアン・メイが肝炎で入院することとなってツアーは中断、アメリカを制覇することは叶わなかったが、残されたメンバーはすぐさま新しいアルバムの制作に取り掛かった。
そして11月には3枚目のアルバム『シアー・ハート・アタック』をリリースし、全英チャートで2位という大ヒットを記録する。
クイーンの快進撃はまだまだ続いていくのだった。


TAP the POP 2周年記念特集 ミュージシャンたちの27歳~青春の終わりと人生の始まり〜



クイーン『クイーンⅡ』
ユニバーサル

クイーン『ライヴ・アット・ザ・レインボー’74 (通常盤)』
ユニバーサル


(このコラムは2015年11月21日に公開されたものです)

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