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「涙のリクエスト」は「夏のクラクション」と同じDNAを持って別々の惑星で生まれた双生児

2018.07.27

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作詞家の売野雅勇が1983年9月21日にデビューする予定だったバンド、チェッカーズのために「涙のリクエスト」を書いたのは4月の中旬であったという。
それは奇しくも稲垣潤一に「夏のクラクション」を書き上げた翌日のことで、この2曲の関連について売野は、著書「砂の果実」でこう述べている。

誰が読んでも絶対に気がつかない自信があるけれど、このふたつの曲は、同じDNAを持つ、別々の惑星で生まれた双生児だ。


「夏のクラクション」というタイトルの歌詞を書こうと決めたものの、売野がストーリーをなかなか思いつかないで苦しんでいた時、ヒントを得ることになったのは、不意に思い浮かんだ映画のラストシーンだった。

〈参照コラム・映画『アメリカン・グラフィティ』のラストシーンから日本につながっていた「夏のクラクション」)

ジョージ・ルーカス監督が高校時代を過ごしたカリフォルニアを舞台にした『アメリカン・グラフィティ』は、どこにもあるような田舎町(スモールタウン)での一夜を通して、ひとつの時代の終わりを黄金時代のアメリカン・ポップスとともに描いて音楽映画の伝説となった。


映画が日本で最初に公開されたのは1974年の暮れから翌年にかけてだが、この作品は一過性の流行にとどまらることなく、深く静かに潜行して日本の少年少女たちに影響を与えていった。
なかでも東京の原宿には『アメリカン・グラフィティ』の世界を体現できるようなショップや、ファッション・ブランドが誕生したことで、古き良き時代の若者文化を日本でもリバイバルさせる流れが出来ていく。

映画も名画座でくり返し上映され続けたし、1980年と83年にテレビでも放映されたので、そこから若い世代に刺激を与えて一気に関心が広がった。
そんな『アメリカン・グラフィティ』の音楽から大きな影響を受けて、福岡県久留米市を中心に活動していたアマチュア・グループたちが、後のチェッカーズである。

藤井フミヤは同じ高校の先輩たちとカルコークというバンド組んでいたが、その頃のことをこう振り返っていた。

この時はザ・コースターズの「チャーリー・ブラウン」と「ヤキティ・ヤク」を日本語に訳して歌った。「ヤキティ・ヤク」は「やけとうや」というタイトルにして「でっかい目玉焼き、焼けとうや、焦げとった」なんて、ふざけた調子で歌っているけれど、これが結構受けたのだった。


やがてカルコークは解散したが、「バンドを組むから、やらない?」と武内享に声をかけられたことで、久留米で活動していた有力バンドの主要メンバーが集結する。
そして武内をリーダーとする新しいグループ、チェッカーズが誕生したのである。

その後、彼らはヤマハ主催のLMCジュニア部門で1981年に最優秀賞を獲得、プロとしてデビューするチャンスをつかんだ。
だがメンバーの藤井尚之や徳永善也がまだ高校生だったために、83年の春に卒業するのを待って上京してデビューを待つことになる。


売野は制作を担当することになったディレクターの萩原暁から、グループのコンセプトとして事前に、「80年代のオールディーズ、サウンドはポリス」だと伝えられていた。

当時のポリスはシングル「見つめていたい」が最大のヒット曲になり、アルバム『シンクロニシティー』も世界的にブレイクしていた時期だ。
「サウンドはポリス」というのはオールディーズにとどまらず、ニューウェイブの香りがするものといったニュアンスだったのであろう。

そんな萩原の言葉に導かれて、売野は4日ほど前にバグルズとかブロンディといった、ニューウェイブの雰囲気を持つ「テレヴィジョン・ベイビーズ」という歌詞を書き終えていた。
しかし、チェッカーズがドゥワップを全面的に取り入れたスタイルで、エンターテインメントを志向するバンドだったことを知っていたので、ふたつ目の作品は60年代風のロカビリーを思わせるアプローチを考えたという。

そこであえてタイトルが「悲しき~」や「涙の~」という定番を書こうと思った時に、オールディーズやドゥー・ワップが全編に流れていた映画の世界に引き戻されたのだ。

それで、当然、ふたたび『アメリカン・グラフィティ』を思い出した。フォード・サンダーバードの物語は昨日書いたから、主人公の少年が、DJウルフマン・ジャックに電話をして、サンダーバードに乗った年上の女の人に、曲をプレゼントするシークエンスを切り口にして、物語を展開することを思いついた。



こうして一人の作詞家の個人的なひらめきが、その後の日本の音楽史を変えていくことになる。
売野はこの時、日曜日ごとに原宿にあった「クリームソーダ」に遠くから通ってくる、ちょっと不良っぽい少年の気持ちになって、冒頭の歌詞を書いたという。

この歌のシチュエーションは時間や国境を超えて、そのまま古き良きアメリカン・ポップスの世界観に直結するものになった。
それからあっというまに、2コーラスの歌詞が出来上がった。

初めてチェッカーズのメンバーたちと売野が出会ったのは、彼らが所属していたヤマハ音楽振興会のスタジオだった。
そこでデビュー前から毎週、作曲家の芹澤廣明がレッスンを行っていたのだ。

チェッカーズはライブで演奏するバンドだったから、プロとして通用するレベルを目指して誰もが真剣であった。
しかし売野がその時に受けた印象は、7人のメンバーがいずれもおしゃれで、キュートな不良少年たちというものだという。

1983年の初夏に行われたレコーディングでは9月21日に発売されるデビュー曲だけでなく、翌年1月21日のセカンド・シングル、さらには5月21日のサード・シングルまでもが完成した。
プロのソングライターによる「涙のリクエスト」「哀しくてジェラシー」「ギザギザハートの子守唄」だけでなく、リーダーの武内享が作曲して売野が作詞した「恋のレッツ・ダンス」のほか、メンバーたちの手による楽曲も含まれていた。

出来上がった「涙のリクエスト」をカセット・テープで聴いて、売野は「生まれたばかりの歌とは、まるで思えなかった」と感想を記してる。

むかしから歌い継がれてきたみたいに、スタンダード・ナンバーのような時間に磨かれた風格めいたものが既にそこにあった。

人間の無意識に響く、特別な何かを持っている。
心の中の原風景をかいま見せる、素敵な力がある。


ところが圧倒的に評判が良かったにもかかわらず、なぜか「涙のリクエスト」は記念すべきデビュー曲の座を、「ギザギザハートの子守唄」に持っていかれてしまった。
そしてそのことが、翌年からの大きなブレイクにつながっていくのだった。



(注)文中に引用した文章はいずれも、売野雅勇氏の著書『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』(朝日新聞出版)によるものです。
なお藤井フミヤ氏の発言は2013年8月21日の日本経済新聞夕刊「歌手 藤井フミヤ(3) チェッカーズの始まり」からの引用です。

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